うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

17歳のテロリストは、なぜ61歳の野党政治家を襲ったのか。沢木耕太郎「テロルの決算」

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1960年10月12日に日比谷公会堂で起こった、17歳のテロリストによる日本社会党党首・浅沼稲次郎刺殺事件について描かれたノンフィクション。

テロルの決算

テロルの決算

 

 

面白いノンフィクションは、膨大な資料や関係者のインタビューを先入観を排して事実として積み重ねていって、事件の関係者の像や事件に至る経緯を読んでいるうちに頭の中に自然と事件の全体像が浮かび上がってくる。

加害者の山口二矢も被害者の浅沼稲次郎も生きた人間として目の前に輪郭が形作られていき、人生の軌跡が目に見えるような感覚になる。

他の関係者も生き生きと描かれていて、現代では想像しづらい当時の社会状況も手で触れているように鮮明に感じ取れる。

大変な時代だったのは間違いないと思うけれど、読んでいるといい悪いは別にして暴走寸前の爆発的なエネルギーを感じる。現在のタイや香港の空気はこんな感じなのだろうか。

 

この本を読む限りでは、山口二矢は普通の人だと感じた。

「普通」の中には膨大なグラデーションがあって、様々な個性もある。ただそういう個性を含む外側の枠である「十代から二十歳前半くらいまでに多くの人が通る道」の文脈で解せる人だったのでは、と思う。

この年頃は多くの場合、「『自分』に輪郭を与えてくれるもの」を求める。それが文化だったり知識だったり恋愛だったりスポーツだったり仲間への帰属意識だったり、時に宗教だったり、その時に流行っているものだったりする。

「自分探し」と言われるもので、それが行きすぎると後々振り返ったときに「黒歴史」になる。

自分が山口二矢に終始感じたのは、「自分という訳がわからないものの輪郭を早く浮かび上がらせたい、確実なものとしたい」という強迫観念に似た思いだ。この年頃だと、そこに膨大なエネルギーを注ぎこむよなという思いで読んでいた。

「17歳の子供だから、誰かに使嗾されてやったに違いない」という考えについては、自分もそうは思わない。

遠慮のない言い方をすれば「『国や思想のために誰かを殺した人間』になりたい」というのは、まさに十七歳ならではの発想だなとすら思う。

ただ大多数の人間は十七歳になれば「他人の生命と自分の自己実現を天秤にかけていいはずがない」ことは言われるまでもなくわかっているだろうし、それがどれくらいバカバカしく自分にとっても損失かということもわかっている。

十七歳のときの自分のほうが今の自分よりも、山口に対して辛辣だったと思う。

今の自分と十七歳のときの自分の考え方が大きく違うのは、人間は環境にかなり左右される(環境に逆らえるほど人間の主体は強くはなく、むしろ環境によって主体が形成されがち)という考えがかなり強くなっているところだ。周りで「あいつは消さなければならない」のような会話が日常的に行われているのに誰も実行しなければ、「俺は口だけのあいつらとは違う。(自己を他から浮かび上がらせることによって自己を確認する)」という発想に至ってもおかしくない。

毎日同じ思考に囲まれていれば、大人でもシームレスにその思考に染まっていく。

この点については年齢は関係ないと思うので、時代の影響は強かったのかなと少し山口に同情的だ。現代に生まれていたら、恐らくテロリストにはならなかったろう。SNSを使って、何かの活動をしていそうだ。

「人に使嗾されたのではなく、時代に使嗾されたのでは」というのが自分の感想だ。

ただそこから一足飛びに実行してしまう、というエネルギーの強さや方向性の見えなさには年齢は関係するような気はする。

思想のためだけに人を殺すまでのエネルギーを一人で生み出せたのは、十代だったからでは、と思う。この年代は誰しも自他を傷つけないほどすさまじいエネルギーを持っている。

このエネルギーをいくつになっても持ち続けられて、しかも自分に適合した道筋を見い出した人がひとつのことをやり続けて大成していくのだろうと思う。

 

皮肉なことに、「人間機関車」と呼ばれた浅沼稲次郎が「このエネルギーをいくつになっても持ち続けられて、しかも自分に適合した方向性を見い出した人がひとつのことをやり続けて大成していく人」だった。

浅沼の政治家としての活動や発言については色々な考え方があると思うので、この記事では触れない。個人的にはちょっとな、と思う部分が多い。まあ時代もあるのだろうけれど。

それはともかくとして、浅沼が活動に向けたすさまじいエネルギーには脱帽する。

応援演説に行く、深夜まで記者たちに付き合うなど実際の動向もあるが、それ以上に組織の複雑さとか人間関係の微妙な機微の中を生きていくとか、こういうことを人生でずっと続けてきたことに感心してしまう。外でのエネルギーの使い方が致命的に下手くそな自分には、一日も耐えられない。

浅沼について面白いなと思ったのは、当時対立していた右側の活動家でも皆、個人としての浅沼には好感を持っていたところだ。

素朴で気さくで人が大好きで、人を必要とし人に必要とされた人だったのだろう、と伝わってくる。

どれだけたくさんの人に囲まれて活動が充実しているように見えても、ふとした瞬間に自分の中に寂しさを見ている、という秘書の言葉が印象的だった。

 

見方を変えれば、浅沼稲次郎と山口二矢の「テロ」という行いを通しての交錯は、「概念としての他者を愛せる人間」」と「概念としての他者にならばどんな扱いでもできる人間」のわかりあえなさを表しているのかもしれない。

自分は、自分も含めて大多数の人は、環境によっては無差別殺人も大量殺人も起こす「平凡な悪」になりうる後者だと思っているので、その「平凡な悪」を特別なもののように考え実行した山口に対して「なんだかな」という視線を送ってしまう。

 

何はともあれ、事件を知るノンフィクションとしても、人を描いた読み物としても、この時代のことを知る歴史の資料としても面白かった。