初めて「インシテミル」を読んだとき、「漫画みたいな話*1だな」と思った。
設定は大仰で荒唐無稽だし、キャラクターは極端にわかりやすくカリカチュアライズされている。
ストーリーに関係ある設定以外のもの(食事の用意や洗濯など)は、「そういうものです」で済まされている。
「本格」というジャンルの前提は「そういうもんだ」で出来上がっているが、いくら何でも非現実的すぎるだろう。
と、ぶつぶつ文句を頭の中で並べながら、「さてと」とまた一から読み直した。
殺人推理ゲームを計画して実行できるなんてどんな組織だよ、と頭の中で突っ込みを入れつつ「さてと」とまた一から読み直した。
何度も何度も読み返してしまう。
何度読んでも「犯人も動機も展開もわかっているから面白くない」と思わないし、「犯人も動機も展開もわかっているからこそ面白い」とも思わない。初読も二回目も三回目も、定量で面白いのだ。
感覚としてはマラソンに似ている。体力さえあれば、あるポイントを抜けるとどこまでも一定の速度で走り続けてしまう。
これはどういうことだろう。
「インシテミル」はとても面白いミステリーだ。
特殊なルールが組み込まれた閉ざされた館で起こる殺人を推理する、または犯人として逃げ切れば、何百万、何千万、何億という賞金がもらえる。
起こるはずがないと思っていた殺人が起こり、登場人物たちは殺人が可能な「夜」に怯える。ルール上、自己防衛がほとんどできず、正体不明の殺人者に怯えながら過ごす三日目の「夜」の描写は秀逸だ。
「謎」「恐怖」「疑心」「推理」「ゲーム」「奇妙なルール」「過去の名作のオマージュ」ミステリー好きなら心惹かれる要素がふんだんに、これでもかというほど盛り込まれている。
ただ自分が何度も繰り返し読むほど「インシテミル」に心惹かれたのは、そのどの要素でもない。
閉ざされた円環構造が好きなのだ。
ここでいう「円環構造」は、現実的に考えれば荒唐無稽でバカバカしくありない要素すべてが組み合わさったときに、滞りなく自律的に動くシステム(世界観)のことを指す。
「インシテミル」はストーリーの外にいる読者から見れば、「いくら何でもありえない」と思う要素が多々ある、というよりそういう要素しかない。
しかしその「ありえないバカバカしい要素」が全て寄木細工のように組み合わさったときに現実とはまったく違う世界が出現し、「そんなアホな」と思うような「ルール」が実際的、というより絶対的な力を持ち機能してしまう。
そしてルールの絶対性を以てその世界観は、外部からの現実的な指摘をすべて無効にする強固なものになる。
文章にすると「何が何だか」という感じだが、この事象自体は現実でいくつも実例がある。
「真昼の暗黒」が語る「党派観念」の恐ろしさは、「個の軽視」や「党の絶対性」そのものではない。
どれほどそれが外側にいる人間が荒唐無稽だと指摘しても、そのシステムの内部にいる人間がそれを信じ生きられてしまう、継ぎ目のない完結性にある。
この話を読んで初めて、なぜこういった非人間的で馬鹿げているとさえ思える思考をそのまま受け入れて、その中で生きてしまう人がいるのかようやくわかった気がした。
外から見ればどれほど馬鹿馬鹿しく見えても、ひとつのものとして継ぎ目なく循環するようにできているシステムの内部で、自分自身がその一部になってしまっている場合、そこから自力で抜け出すのは不可能だ。
(「モスクワ裁判の被告は、なぜ嘘の自白をしたのか」という謎に迫る心理劇「真昼の暗黒」 - うさるの厨二病な読書日記)
「真昼の暗黒」もそうだが、この手の話の多くは「システムの無慈悲さ」が主題になる。登場人物たちはその世界観を否定し、何とかそこから脱出しようとするか、脱出できないことに絶望を覚える。
自分の好きな話だと「ムーンライトシンドローム」や「残穢」、「ひぐらしのなく頃に」(「ひぐらし」はこのことが最も明示的な話だ)などがそうだ。
ところが「インシテミル」は他の話とは違い、「無慈悲なルールで作られた完結したシステムの恐ろしさ」にはまったく目を向けない。
その恐ろしいシステムの中で「空気の読めないミステリ読み」としてどう遊ぶか、この一点に主眼がおかれている。
「自分にとって訳がわからないが、絶対的な力を持つルールに支配された出口のない円環」の中など本来は恐ろしくていられない。
「インシテミル」ではそれを可能にするために、「円環自体に対する恐怖心や敵対心」は排除されている。登場人物たちは最後まで、暗鬼館という無慈悲なシステムを倒さなければならない、という意識を持たない。
彼はこの空間のデザイナーの底意地の悪さは感じ取れても、<主人>の考えは何ひとつ理解できない。
理解する必要すらないと思っている。(略)
しかし、悲しみや怒りを全部取り払って自分自身も空気の読めないミステリ読みに戻ってみれば、確かに半数生存というのは、多いように思われる。
(引用元:「インシテミル」 米澤穂信 (株)文藝春秋 P435-P436/太字は引用者)
「償いをさせるなら、おれたちを駒に、高みの見物でミステリに淫してみた<主人>にさせるべきです。でも、きっと、手が届かないでしょう。(略)でも、その解決を台無しにしてやるんです。おれにできる嫌がらせは、もう、それぐらいだ」(略)
どうやら自分は暢気者らしいので、あまりシリアスなのは似合わない。
(引用元:「インシテミル」 米澤穂信 (株)文藝春秋 P463/太字は引用者)
暗鬼館を脱出し報酬を受け取ったあと、始まりである「車がないと女にモテない」のフレーズに戻り、恐らくもっと無慈悲なルールに支配された「明鏡島」への招待を主人公が受け取ることで連環がつながり話が終わる。
登場人物たちは、絶対化されたルールで形作られた世界の中を周り続ける。
暗鬼館が象徴する無慈悲なルールによって形成されたシステムそのものは、登場人物たちは「手が届かない」と受け入れている。だから読んでいるほうも、暗鬼館に対して「非現実的で無慈悲なものなのだから終わらせなければならない」という現実に即した認識に邪魔をされず、恐怖と謎を純粋に楽しむために何周でも回れるのだ。
「ルールやシステムが絶対的な神であり、その中で『個』という概念は紙のように脆い」という世界は、現実的に考えれば「間違った」ものであり恐怖でしかない。一般的には「それがいかに間違っているか」「いかに打破すべきか」が語られる。
「インシテミル」のようにそのシステムの是非や善悪を問わず(興味を向けず)、何周でもリピートできるように仕立てた話は稀だ。
自分にとっては、年間パスポートを買って何度も訪れて、その世界を歩いて眺めて空気を味わうだけでも満足できる「空気が読めないミステリ読みのための、謎と恐怖と悪意に満ちた永遠に続くテーマパーク」なのだ。
正に「インしてみる」で「淫してみる」。
「すべての要素を確信犯的に荒唐無稽にすることで、『リアルライン』や『そういうもんだライン』を実質なくす」という逆転の発想がすごい。
*1:漫画の手法である「簡略化」「記号化」「戯画化」を設定を考えるときの手法として取り入れているという意味で、「漫画は単純で非現実的な話ばかりだ」ということを言いたいわけではない。念のため。