今さらだけど、「鬼滅の刃」の既刊22巻までとアニメシーズン1を観た。
もうさんざん色々と言われつくされていると思うが、それでも自分の感じ方を書きたくなるくらい面白かった。
「鬼滅の刃」ですごいなと思った点は、ひとつのエピソードで問題として語られていることが、他のエピソードで自由に補完できるところだ。
自由度が高い、というと事象について余り説明を入れず解釈の幅を持たせるやり方が一般的だが、この話はエピソードのつながりを読み手に任せることで、自由度に幅を持たせている。
1ピースだけでも楽しめるし、全部組み合わせて何かを作って楽しめる、寄せ木細工のように組み合わせを楽しめる。
特に上弦の月のエピソードはこの傾向が強い。
黒死牟こと継国巌勝は、弟の縁壱への嫉妬と強さへの渇望から鬼になった。
この二人の関係は、不死川兄弟や時透兄弟の写し絵になっている。巌勝・縁壱兄弟の関係で語られなかったこと、すれ違っていた点が「こうだったのではないか」とも考えられるように、不死川兄弟や時透兄弟の関係で語られている。
そう思ってもいいし、そこにつながりはないという風に読んでもいい。
不死川兄弟は、兄・実弥とは違い柱になれない「弱い」玄弥が、「弱いがゆえにできることがある」ことを炭治郎に教わり、「弱いがゆえにできること」を実行することによって「勝つこと、強いこと、優れていること」のみに価値を見出す巌勝の価値観への反証になっている。
弟を思っているがゆえに突き放していた実弥の優しさや、誰よりも弟を思っていたけれど余裕がなくて優しくできず、そんな自分が誰よりも嫌いだった有一郎を描くことで巌勝を描くうえで描ききれなかったこと、描くと不自然になるところを補完している。
巌勝は自分自身の思いでいっぱいっぱいになってしまい、自分の中の縁壱像を勝手に膨らませてしまっている。
縁壱の「剣の話をするよりも俺は、兄上と双六や凧揚げがしたいです」という言葉も、「縁壱はそんなことを考えていたのか」と受け止めるのではなく、「私は剣の道を究めたかった」と「私」だけの意識でいっぱいになっている。
巌勝は「お前(縁壱)になりたかったのだ」という割には、縁壱が「双六と凧揚げがしたい」と言っても聞かず、すぐに「私は」と言い出す。
巌勝の「なりたい縁壱」は現実の縁壱ではなく、巌勝の頭の中の「俺の中のすごい縁壱」なので、敵うわけがない。巌勝は現実の縁壱のことは知ろうとせず「俺の中のすごい縁壱」しか見ていないから、「お前が笑う時、いつも俺は気味が悪くて仕方がなかった」のもそれはそうだろと思う。
そして巌勝は「縁壱に対する自分の意識」で頭がいっぱいになることで、縁壱よりも誰よりも自分自身をまったく見ていなかったことも語られる。
(引用元:「鬼滅の刃」20巻 吾峠呼世晴 集英社)
(引用元:「鬼滅の刃」21巻 吾峠呼世晴 集英社)
「自分の悪い部分をやたらクローズアップして、自分のいいところは一切認めず、その自己嫌悪から周り(自分を含む)を見る余裕がなくなってしまう人」をどうすればいいのか?
「鬼滅の刃」の面白いところは、こういう巌勝と縁壱の関係での問題点の解決方法の例示を、既に他の関係でやっているところだ。
冨岡も最終選別はどうであれ、現在は実力で「柱」にまで上り詰めている。周りの人間も誰一人、冨岡の実力についてはとやかく言っていない。
だがどんなに強くなって周りから認められても、「俺の中のすごい錆兎」は冨岡よりも常に上だ。だからずっと「自分が生き残ってしまったこと」で意識がいっぱいになってしまう。
一人でずっとそのことにこだわって、そういう態度が周りにどう映るかということまで想像ができなくなっている。
炭治郎の助け舟?で、冨岡は自分は自分のことにいっぱいいっぱいで実弥が何を好きなのかさえ知らなかった、「うまく話せない自分」「自分の中の思い」ばかりに注目するのではなく、「相手である実弥がどういう人間か(何が好きか、など)」に意識をシフトさせればいいのだ、と学ぶ。
(引用元:「鬼滅の刃」16巻 吾峠呼世晴 集英社)
さらに冨岡が無表情で話すのが苦手なために他の人間に真意が伝わらず、実弥に誤解されてしまうことは、縁壱が感情を表すのが苦手で巌勝がその真意をつかめず「気味の悪さと苛立ち」を感じてしまうことと重なる。
巌勝だけが一方的に悪いわけではなく(縁壱が悪いわけでもないが)そういう感じ方の違いにもすれ違いの原因があるのでは、ということまで語られている。
あれだけ妬むということはそれだけ縁壱のことを認められるということで、それはそれですごいと思うけど、「自分の評価基準」以外の評価は耳に入らない。冨岡がそのあと柱になっても、最終選考の結果が自分への評価規準であり続けたように。
炭治郎が冨岡に話をすることで、冨岡と巌勝に共通する「鬼=こだわりからの自己嫌悪」を浄化している。炭治郎はただ戦って鬼を倒すだけではなく、人の心の中の「鬼」を浄化することができるのだ。
これを1エピソードの中でつなげてあったり、比較的近い場所で語られると「こう読む」という圧が強くなるが、時系列もキャラクターの関係も遠く、しかも冨岡と実弥の話は日常パートなので「つなげるつなげない」の自由度が大きい。
巌勝、縁壱の関係への補完や解釈として取り入れることもできるし、「それとこれとは関係ない」とつなげなくとも楽しめる。
これは巌勝の最期の「自分の生に価値はあったのか」という問いかけに対する無一郎の答えもそうだ。
時透兄弟の関係と巌勝・縁壱の関係は単純な写し絵ではないので、どこをどう考えてつなげるかで話の模様を万華鏡のように変えられる。
感情を持たない童磨は、かつて自分の心を決められなかったカナヲや強い怒りを笑顔で隠していたしのぶの対比になっている。カナヲは童磨にかつての自分を見ているからこそ、その痛いところを的確に抉ることができ「あなたのこと嫌いだから」と言い放つ。死の間際まで笑顔だったカナエが、厳しい顔でしのぶを叱咤するなど、姉妹全員が童磨の対比になりその思いの積み重なりで戦っている。
猗窩座と伊黒は自分という存在に罪悪感を持つ似た背景を持っている。猗窩座は「柱」ではなく無惨に会ってしまった伊黒という考え方もできる。
伊黒と蜜璃の関係でも、飯を食うことにトラウマがある伊黒が飯をたくさん食べる蜜璃を好きになり、「伊黒さんと食べるご飯が一番おいしい」と言う言葉で結ばれるのは、伊黒が自分の呪われた生まれを乗り越えたことを表しているとも考えられる。
色々なエピソードがいくつかのキーワードでつながるようになっているので(特に「兄弟」が多い)話が先に進めば進むほど、作内で補完し合えたりつなげられる要素が増えていき面白くなっていく。話が「続いている」のではなく、「積みあがる」感覚が強い。
「読み続けてきたこと」への報酬が高く、「読み続けてよかった」と読めば読むほど思える。作内で繰り返し語られる「人の思いとつながり」をそのまま体現したような作りだ。
鬼と人間は元々は同じものであり、人間にひどい目に遭わされた者は鬼になり、鬼にひどい目に遭わされたものは鬼殺隊に入る。
鬼たちが鬼になった経緯を知ると、鬼になるか鬼殺隊になるかはほんの少しの運命の違いにすぎない。
無惨と耀哉が同じ顔で人差し指を口の前に立てる同じ仕草をするのも、人間と鬼は表裏一体であることを表しているのだと思う。無惨は人の心に息づく生命体、というのは最後のオチもそれっぽいようだし。
「鬼滅の刃」は自分から見ると、自己葛藤の物語だ。
誰もが持つ醜い心、悪の心、弱い心、何等かの理由があって黒い方向に惹かれてしまう自分という鬼といかに戦うか、という話なのだ。
鬼は自分の中に元々いて、鬼になるか人間でいるかは、ほんのちょっとした違いだ。ほんのちょっとした違いをいかに自分で守り律し続けるか。
その違いに揺れ動きながらも、時に揺れ動いて「鬼」になってしまう自分も、倒したあとは「鬼も元々は人間だった」と受け入れる。
他人も自分も含めた「人」に対して、厳しく優しい物語だ。
そういう風に生きるのは難しいけれど、「鬼滅の刃」を読んでいると自分も少し頑張らなければ、という気持ちが自然と湧いてくる。
23巻も読んだらまた最終巻までの感想を書きたい。
書きました。