「私のジャンルに『神』がいます」の珠希に触発されて、自分も文章について考えたこと、やってみたことを急に話したくなった。
人のメソッドを聞くのは楽しい。珠希の「短編小説百本ノック」も、もう少し前の体力があったころだったら実際に試したかもしれない。
ただ単に自分が「こういう風に考えました」という話なので、学びはない。ちゃんと学んだわけではなく、自分一人でああだこうだ考えたことを書くだけなので暇つぶしに読んで欲しい。
「ライ麦畑で捕まえて」のリズム感が好きだ。
珠希が「文章の修行」としてやってみたことに上げていた、小説の丸写しは自分も昔やったことがある。
文章で大切なのはリズムではないかと考えていたので、上手い人のリズムを身に染み込ませたかった。
今振り返ると、リズムを染み込ませるなら筆写よりも音読のほうが効果的に感じる。書いた文章は必ず音読しろ、とよく言われる。最近は自分の文章は余り音読しないが、新聞や小説の音読はたまにやる。
「文章のリズムを大切にしたい」という考え方を突き詰めていって、書く上で大切なのは読点の位置ではないかと考えるようになった。一文の長さをどうするかと読点の位置は、自分にとって大きな課題だった。
自分が好きなリズムを感じる文章は「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝訳)の冒頭だ。
もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたかとか、そういった「デーヴィッド・カパーフィールド」式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。
第一、そういったことは僕には退屈だし、第二に、僕の両親てのは、自分たちの身辺のことを話そうものなら、めいめいが二回ずつくらい脳溢血を起こしかねない人間なんだ。そんなことでは、すぐ頭に来るほうなんだな。特におやじのほうがさ。
いい人間ではあるんだぜ。だから、そういうことを言ってんじゃないんだ。けど、すごく頭に来るほうなんだな。
(引用元:「ライ麦畑でつかまえて」 J・Ⅾ・サリンジャー/野崎孝訳 白水社 P5)
村上春樹が指摘している通り、使われている語句や言い回しはだいぶ古い。ただ文章のリズムは本当に素晴らしいなと思う。
(ホールデン本人が言うように)内容はどうでもいい話の羅列なのだが、つい声に出して読みたくなる。
「ライ麦畑」は文章の過剰なまでの装飾を武器にしていている。ストーリー自体も「意味のない空っぽのものをいかに意味のあるものように見せかけるか」「意味のあるものと見せかけることで、本来は空っぽのものの意味を創出してしまう」(私見)
ホールデン以外にとっては意味のない物事のつながりが回路となり、その意味のないものから出来上がった回路自体にはもちろん意味はないが、その回路を通ることに意味を持たせている話だ。そんな発想で話を作れることが驚異的だと思う。
「ライ麦畑」は好きだけれど、文章はどちらかと言えば引き算を重視する姿勢のほうが好きだ。
ストーリーも文章も「いかに少なく書き(描き)、多くを伝えるか」が、自分の中の理想だった。(一応)
「大事なことほど書かず、その周辺の描写を書くことでその差異から描きたい物事を浮かび上がらせる」。
トマス・ピンチョンやコーマック・マッカーシーはこういうスタイルが得意に見えるけれど、現代米文学で流行っているのだろうか。
発想としては構造主義的(物事そのものではなく、そこに存在する物事同士の関係性の差異に意味は宿る)を彷彿させる。この手法はハードボイルドの影響を感じる。
自分は文体としてはハードボイルドが好きで、たぶん一番影響を受けている。
直接的な叙情はせず、行動の描写によってその人物の心境や性格を類推させる手法で、完全にその文体で書いている人はハードボイルドの主流以外ではあまり思いつかない。(いるとは思うけれど)
「蠅の王」で、その物事を認知する人物にとっての意味を「事実」として描写する手法を学んだ。
「蠅の王」はストーリーが好きで影響を受けたけれど、文体からも影響を受けた。
地の文体でも「登場人物にとっての意味」のみを描写する手法「実存認識的描写」(造語)を学んだ。
客観的な「意味」は本来人間には何の作用もしないのではないか、と「蠅の王」を読むと思う。
人間の関係性や感情から作られる磁場によって、「事実ではないのに事実として機能する意味」が生まれてしまうのがこの話の恐ろしいところだ。
例えば「獣、空よりきたる」で少年たちが「獣」と勘違いする兵士の遺体は、地の文でも「遺体」と表記されない。
風に揺られて上半身がガクガクする不自然な動きが、少年たちの目には自分たちの知らない生物の活動に見える。そして少年たちの「意味」しかわからない読み手にとっても、それは「不時着した死体」ではなく「空から降ってきた獣」として機能する。
事実を見る強さを持つサイモンの視点のときだけ、地の文でも「死骸」と書かれる。
しかしそれが「ただの死骸である」という事実は何の意味も持たず、「空からきた獣」としての意味が機能して少年たちは殺し合いを始める。
サイモンは狂乱した仲間に必死に「事実」を伝えるが、事実もろとも殺されてしまう。
ある磁場の中では「事実は何の意味も力も持たない」し、それは「蠅の王」の少年たちの集まりだけではなく、どこでも同じではないかと喝破している。
「獣、空よりきたる」で兵士の死骸が空から降ってくる描写は、「もう死んでいる無力な物体がたまたま振ってきただけ」という事実ではなく、美しい空から訳の分からない恐ろしい物体が突然現れる恐怖(意味)を読み手に伝える。
「叙景や叙事によって恐怖を描く」こんな文章が書きたかった。
文章を書けば書くほど、言葉というのは不完全で不自由なものだと感じる。慣れたと思った直後に、まったくいうことを聞かなくなる。本当に難しい。
それでも書くことは楽しいし、書くことについて色々考えるのも面白い。
珠希のような「修行」をする気力はないけれど、自分の理想を目指して色々と試行錯誤しながらこれからも楽しく精進したい。