前回の話で入れられなかった箇所があるので続き、というか補足。
巌勝というキャラは、ほぼすべてが弟・縁壱に対する感情のみでできているキャラなので、縁壱について考えてみようと思った。
縁壱というキャラは、把握するのが少し難しい。
「縁壱の才能(天才)」と「人間・縁壱」が完全に分離していて、さらにストーリー内でこのふたつの部分を同時に認識しているキャラがいないからだ。
前回の記事で書いた通り、巌勝は「人間・縁壱」は最初から最期までまったく認識していない。
自分にとって最も重要な「剣の道の神」の象徴として信仰し、その信仰が空回り報われないことに苦しんで終わる。(こういうところが好きなのだが)
巌勝以外では無惨も縁壱のことを「本当の化け物」と呼んでいる。
対してうたと炭吉一家は、「人間・縁壱」として縁壱と接している。
21巻の「戦国コソコソ話」を読んでも、「剣技の才覚の印象が強すぎて、縁壱という物静かな人格は霞んでしまった」「剣技以外で縁壱がどんな人だったか? ということを覚えている人は少ない」と書かれている。このあたりを見ても「縁壱の天才」と「人間・縁壱」は、人の心の中で両立して存在しえないように思える。
「天才」というのはそれ自体が一個の生命体で、ある人に理由もなくとりつく「憑き物」だと思っている。「縁壱の才能と人格の分離」は、自分がイメージしている「才能と人格の関係性」に近い。
巌勝は「縁壱の才能」しか見えないことと、縁壱が余りに物静かな性格であることが相まって、縁壱の言動がまったく理解できず「気味が悪い」と繰り返している。
「気味が悪い」はどうかなと思うけれど、この点については自分もどちらかと言えば巌勝寄りの考え方だ。縁壱はおいておいて、冨岡に対する不死川の苛立ちは理解できる部分がある。
と思っていたら、「戦国コソコソ話」で「大声で笑っていなければ楽しいと思っていないわけではありませんし、大声で喚いていない人は悲しい気持ちになっていないわけではない」と書かれているのを読んで、「すみません」という気持ちになった。いやまあ、わかっているけれど。
「人間・縁壱」に重点を置いたときの縁壱と巌勝の関係に対する考え方が、前記事の「縁壱は兄上のことが好きで一生懸命自分の気持ちを訴えているのに、一方的すぎないか」という見方になる。
一方で縁壱の才能の部分に注目すると、無惨すら太刀打ちできない「太陽」という「鬼滅の刃」の話の中では神に等しい存在になる。
「神」として見ていたなら巌勝の狂信も分かるし、最期の問いかけも報われない信仰の叫びと考えるとわからないでもない。
ただ巌勝はそうは言いつつ「気味が悪い」とか「嫌い、憎い」など「縁壱を人として見ている」(神なので理解できないと思っていない)ので、やっぱり見方が一方的すぎるのではと思うけれど。
自分から見た縁壱という人物の面白さは、「私は恐らく、鬼舞辻無惨を倒すために、特別強く造られて生まれて来たのだろう」この考え方にある。
縁壱自身が誰よりも、自分は自分が持って生まれた才能に隷属する存在だ、とわかっていてそれを抵抗なく受け入れていた。煉獄の母親も似たようなことを言っていたが、煉獄の母親の考えよりももっと受動的な感じがする。
自分が渇望する「才能」を、縁壱が受動的に「ただそこにあるもの」と受け入れているところも、巌勝にとっては苛立たしく理解できなかったのかもしれない。
こういう才能を持った人は才能に隷属するがゆえに自分も消耗し、周りにも迷惑をかけるケースが多い。
その「迷惑をかける役回り」まで巌勝に振られているのだから、「私は一体、何のために生まれて来たのだ、教えてくれ、縁壱」くらいの恨み節くらいは言いたくなるかもしれない。
そう考えても勝手だなと思うが、その勝手な信仰が強烈すぎて自家中毒を起こしているところが、巌勝という人物の中で一番好きなところなのだ。
結論:結局好き。