うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「鬼滅の刃」を23巻まで読んだので、感想の付けたし。

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最終巻23巻を読んだので、前回の感想で入れられなかったことを雑談風に話したい。 

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家に帰る話

「お願いします、神様。家に帰してください」

「俺は妹と家に帰りたいだけなんです」

炭治郎のこのセリフを読んだとき、こういう話だったなあと思った。

「強くなりたい」わけでもなく「何かになりたい」わけでもない。「冒険に出たい」わけでもなく、「鬼とは何なのか? 何のために生まれたのか?」のような好奇心も特にない。

縁壱も「私の夢は家族と静かに暮らすことだった。小さな家がいい。布団を並べて眠りたい。愛する人の顔が見える距離。手を伸ばせばすぐに繋げる届く距離と言っている通り、遠くに可能性を求める話ではなく「家(安定した既存の居場所)に帰る話」なのだ。

柱も死ぬときは「家族」の下へ戻るし、上弦は帰る人と帰る場所がない人に分かれるなど徹底して「家(族)に帰る話」だったなあと思う。

 

無惨

無惨については色々な考え方があると思うけれど、自分は一貫して「人の心の悪意(や弱さ)の象徴」「人がいる限り生きようとする一個の生命体」で、人の心の中の

「悪」「善」

「自分のみで完結している」「自分は命をつなぐ存在だと考える」

「個」「多(家族・仲間)」

の対比として捉えている。

最後に炭治郎と融合して、炭治郎が人として生きていくうえでの迷いを囁くところや、猗窩座が「猗窩座」と狛治のあいだで揺れ動くときに出てくるところを見てもそう思える。

鬼たち(特に上弦)は、それぞれ価値観(執着)を持っているけれど、無惨は「生きる」という目的以外にほとんど価値観がないところが人間には見えない。

有名なパワハラ会議も無惨に何か目的や感情があるようには見えず、「理不尽な恐怖(パワハラ)」という概念に見える。

「無惨は誰の心の中にもいて、自分が鬼に引き寄せられそうになったときに囁く存在」だと考えている。

「その場を永遠に生き続けること」が目的の無惨にとっては、何百年先の未来まで見通して、自分の生を含む世界を俯瞰している耀哉や縁壱が「化け物」に見えるところが面白い。

個人的には無惨が敵役であるよりも耀哉が敵役のほうがよっぽど厄介だと思う。そういう話を想像して、自分が主人公サイドだったらと思うとちょっと震える。

 

善逸と獪岳

善逸はいい奴だと思うし好きだけれど、一方で獪岳のようにこういうタイプがよくわからず苦手、と思う気持ちもわかる。

「ごめん、俺、獪岳と仲良くできなかった。手紙書いたりもしていたんだ。でも返事してくんなくて」

「俺がいなかったら、獪岳もあんな風にならなかったかもしれない」

「人と気が合わない」というのは、いい悪い(「俺が悪い」)ではなくて、組み合わせによって生じるただの事象だと思っているので、「好きになることがいいこと」という姿勢でこられると自分もちょっとしんどい。

「俺がいなかったら、獪岳もあんな風にならなかったかもしれない」

と言われると、自分が獪岳だったら「お前がいなくても、俺は『こんな風』だ」と思ってしまう。

戦闘前の本音全開の罵り合いをもう少し早めにやっておけばよかったのではと思うけれど、こういう場面でも「自分もカスで、爺ちゃんは後継に恵まれなかった」と言ってしまう善逸の自己評価の低さだと、どこまで行ってもすれ違いのままなんだろうな。

「獪岳がクズなのは獪岳自身の責任」という姿勢よりも、「お前はお前がカスという俺と同じ」というほうが「俺とお前は違う」と叫ぶ獪岳にとってはダメージが大きそうだ。とことん相性が悪い。

獪岳と善逸のエピソードは、獪岳が最期まで善逸に歩み寄らずわかりあえずに終わったところが、そういうこともあるよなと思えて良かった。 

 

巌勝と縁壱

巌勝は、自分の中では「ひたすら信仰に励んでいるのに、神が応えてくれないことに苦しむ人」というイメージだ。巌勝の苦悩を見ていると、「沈黙」のロドリゴ神父を思い出す。巌勝も「神よ、あなたはどこまで私を弄ぶのですか」に近い心境だったしな。

MBTIの話で、「愛情を普遍的なものに注ぎがちなINFJと、一極集中で相手に全てを求めるINFPは地獄の組み合わせ」と書いたことがあるけれど、縁壱と巌勝もそういう風に見える。

縁壱が巌勝に注ぐ穏やかな愛情は巌勝にはまったく見えず、ただひたすら自分が信仰する縁壱像を渇望してしまう。そして応えてくれないことに苦悩するという、お互いの思いが一方通行という不毛な関係だ。

その関係の不毛さが好きなのだけれども。

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猗窩座がハマった罪悪感ループ

「自分が常に守る側である」と思い込んで、追い込まれて破綻する。

「守れなくてごめん」を言えないがために、「俺は強(悪)い」ということを何百年にも渡って証明し続ける。

猗窩座を見ていると、罪悪感という感情が人にとっていかに厄介かわかる。

猗窩座のエピソードで一番驚いたのが、「恋雪の母親が恋雪の病状に悲観して自殺した」という話だ。サラッと書いてあるけれど、すごいことを言っているなとびっくりした。

猗窩座の父親も「自分が息子の人生を狂わせている」という罪悪感から死んでしまい、猗窩座に「父親を守れなかった」という罪悪感を残してしまう。

恋雪の家は、「病に苦しむ娘を見ていられない」という罪悪感から母親が自殺⇒その罪悪感を父親が背負えず(たぶん元々背負えないから、母親が背負っていた)、娘の看病を猗窩座に任せる⇒恋雪は父母の苦悩を罪悪感として背負っていて、それを猗窩座の前で発露する(すぐに泣く)⇒猗窩座が恋雪を守らなければと思う⇒毒殺されて「守りきれなかった罪悪感」

猗窩座のエピソードは、罪悪感のドミノ倒しの終着点が猗窩座になっている。

猗窩座の技はすべて思い出が元になっている、という解説を見たときは「そこまで詰めるのか」と震えた。

「守る」「守られる」が一方的になると、というより「物理的な守り」と「心理的な守り」が混同してしまうと、「何か守るものがないと駄目」(自分は守る側である)という発想は、呪いとして働いてしまう。

伊黒が背負う罪悪感も重さがすごいが、「理不尽さがどれだけ可視化されているか」という点ではまだしもマシに見える。

外から見たら「理不尽」と明確に思うものでさえ本人は抜けられないのだから、そうでないものだったら「自分が悪(い)」と思い続けて何百年も鬼になって周り続けるのも、さもありなんと思ってしまう。

 

悲鳴嶼

悲鳴嶼は、子供相手にも「沙代にだけは労わって欲しかった」と見返りを求めてしまうところがちょっとなと思っていた。16巻で過去を話すシーンでは、子供の炭治郎に甘えてるなあと思ってしまう。炭治郎はこういうとき、誰に対しても即座に「お父さん」になるところがすごい。(冨岡に対してもこんな感じだったな)

悲鳴嶼の最期は、「ずっと子供たちのことを誤解していて、我欲の塊と思っていた」ことに自分だったら愕然としそうだが、悲鳴嶼のように子供が好きな人は我欲の塊だろうがいい子だろうが変わらず好きだ、ということに行き着いて救われたのだと思うことにした。

皆から尊敬され頼られている柱の中でも最強である悲鳴嶼が、実は子供にも甘えてしまう繊細さを持つ、というギャップがいい。

悲鳴嶼を見ると、「物理的に強い人が心理的にも常に守る側に回れるわけではない」ということがわかりやすい。

 

現代編

本編が「家に帰って」綺麗に終わっているので個人的には蛇足と思うけれど、ファンサの要素が大きいだろうしこれはこれでいいのかな。

輝利哉が生きていることに一番驚いた。愈史郎と友達、というところもいい。

細かいところまで設定が考えられていて、「端役のキャラクターまで愛されている」と思えてこういうところが好きだった。 

 

まとめ

「鬼滅の刃」は「自分とは少し考え方が違うな」と思うところもけっこう多かったが、だからこそ色々と考えられるし、そういう点も含めてどのキャラも「生きている」と感じられるところが一番の魅力だった。

熱くて面白い話をありがとうございます、という気持ちでいっぱいだ。

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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