*この記事には、「この作品はメリバと思われる」というネタバレが含まれています。
「メリーバッドエンド」略して「メリバ」の話題が先日上がっていた。
自分は割とメリバ好きなのだが、その起源を考えると子供のころにたどり着く。
そのころ自分が読んでいた漫画やライトノベルは、「メリバ」が多かった。
今でも一番好きなライトノベル「星の大地」もメリバだ。
今の時代だと「ちょっとありがちかな」と思う設定だが、いい話なので未読の人はぜひ読んで欲しい。
kindleでは出ていないようなので、もう絶版かな。もったいない…。
中学時代、自分の周りでCLAMPと高河ゆんがすごく流行っていた。そのころ出ていた作品は、ほぼ読んでいる。
「周りが何と言おうと、これが私(たち)の幸せなのだ」という強固な価値観が、厨二心に刺さりやすかったのだろう。
CLAMPの商業誌デビュー作「聖伝」は、敵から味方に至るまで、どの登場人物も「メリバ的価値観」(造語)が強かった。
自分のことしか考えていない舎脂が、物珍しく見えるくらいだ。
有名どころだと「魔法戦士レイアース」の第一部はメリバ落ちだった。
「こんなのってないよお」と光が叫んでいたが、CLAMPの世界観ではあれが通常運転だ。
高河ゆんの商業誌デビュー作「アーシアン」の登場人物も、「メリバ的価値観」のキャラばかりだった。
セラフィムとエルヴィラは、いま考えるとすごい設定だ。
そういう周りが「え?」と思う価値観や世界観に理性を失い飲み込まれてしまうのは何故なのか、ということをこれほど説得力を持って描ける作家は他にいない。
子供のころは、設定がガタガタなところが気になってそこまで好きではなかったが、高河ゆんが描く世界の美しさと凄みは大人になればなるほど染み入る。
ルシフェルが言う「私は神の愛を信じない。神の愛は平等だからだ。その中でたった一人を愛おしいと思うのが人間じゃないか」(うろ覚え)というセリフは、「メリバ的価値観」の真骨頂だと思う。
「メリバ的価値観」の真髄は、「他人にとっては何の意味もない、自分にとってしか意味がないたったひとつのものを信仰し殉ずる精神」にあるのではないか、といま思いついた。
先日、読み返した「沈黙」もメリバだった。
「鬼滅の刃」は自分の中ではメリバだ。
「鬼滅の刃」は、本来の問題点を「鬼」というものに仮託して「鬼さえいなければ解決」と思っている硬直した思考が怖い。
例えば琴葉は最終的には鬼である童磨に殺されたが、彼女を虐げていた夫や義母は人間であり、この二人から一時的にでも守ってくれたのが鬼の童磨で、こういったねじれ構造は「鬼滅の刃」のそこかしこに出てくる。
しかし誰もこの構造には、疑問も持たないし着目もしない。
「鬼滅の刃」において、「鬼は絶対悪であり、相対的に人間は善である」という価値観に対する疑問を持つこと自体が禁忌になっている。(他の話だと、肯定はされないが疑問自体は提示されることが多い)
自分にとってはこの「強力な禁忌による思考停止の不自然さ」が、「鬼滅の刃」の一番好きで面白いところだ。(無惨が耀哉を「本当の化け物」と呼んでいるところを見ても、かなり確信犯的だと思う)
琴葉が「自分は頭が悪い」と思い込まされている「DV被害者あるある」など、細部が異常に生々しい。しかし「DVの生々しさ」はポンと出てくるだけで、着目はされず、ひたすら鬼の非道さのみが強調される。
こういう「本来の生々しい問題を『鬼』という概念で覆い隠す問題点と、それを百も承知しながら解決しない(できない)現実」という絶望の上に物語が成り立っているところが面白い。
ドラマ「Nのために」や「眠れる森」もメリバだ。
野沢尚の世界観は「信仰の世界」なので、メリバ一直線になりやすい。
「自分にしかわからない幸せ」の世界は、やはり美しい。
タイプ論で言うと、自分の中の価値観を信仰する内向感情型は「メリバ好き」で、その場にいる全員の感情の調和に着目する外向感情型は「メリバにモニョる」ような気もする。
思い出すと滅茶苦茶読みたくなるな。
「進撃の巨人」はメリバ以外は考えづらくなってきたが、どうなるんだろう。