この話は前に考えて自分の中ではまとまってしまっているのだけれど、整理しがてらもう一度考えたい。
*個人がどうというより「社会的規範としての男らしさ」が深く関わる話だと思うので、以後この記事では「男」「女」という語を、「社会的規範として機能している男(女)らしさ」の略語として用いていることを了解して読んでください。
「こんな私にも素敵な彼くんが」マンガ
- [あとで何か書くかも]
男は「こんな俺にも素敵な彼女が出来た」より、「こんな素敵な彼女がいるのに俺ときたら」という意識になりやすいような。「助けてもらうだけの無能力な俺では駄目」という感覚が「男の辛さ」なのかなと思う。
2021/02/17 07:07
結論から書くと、自分は男にとって「自分が無能(力)である」という感覚や認識は、毒性が強い忌避すべきものなのではと考えている。
無力感や無能感に対する耐性の低さ、「無力であることは悪である」という考えは男性特有のもののような気がする。グリフィスのように「無力な存在でい続けるくらいなら、仲間を全部捧げる」という発想は極端だけど、「分からないこともない」という人もいるのでは、と予想している。
逆にこういう「運命に対して受け身で無力になったときの耐性」みたいなものが、よく言われる「男性にはない女性の強さ」につながっているのではないかと思う。(「運命に対して受け身で無力になったときの、女性特有の強さ」が主題の代表的なものが「親なるもの断崖」)
「魔法少女まどか☆マギカ」と「ベルセルク」の類似について考えた。 - うさるの厨二病な読書日記
「ベルセルク」で、グリフィスが拷問を受けて自分では体も満足に動かせない無力な存在に陥ったとき、キャスカは恋人であるガッツを振り切ってまでグリフィスの面倒を一生みようとする。
グリフィスは元々は容貌も才能も恵まれた強者男性だが、キャスカとは恋人関係になったことはないし、キャスカにはガッツという恋人もいる。
キャスカがグリフィスと一緒になろうと(恋人であるガッツと別れてまで)決意したのは、グリフィスが恵まれた容貌も才能も地位も名誉も失ったあとだ。
「元々恋人同士(もしくは夫婦)だった相手が、困難を抱えた『こんな俺』になった『ツレうつ現象』」ではない。
正に「こんな俺にも素敵な彼女ができた」だ。
ところがだ。
グリフィスは一度は受け入れかけるが、そのあと仲間全員を捧げてゴッドハンドになり、しかもガッツを振り切ってまで自分に尽くそうとしてくれたキャスカにあの仕打ちである。
「グリフィスという人間がそうなのだろう」という意見もあるかもしれないが、自分は「こんな俺を選んでくれた素敵な彼女を振り切って、ゴッドハンド化する俺」という現象が、男にとってはファンタジー(広く共有可能な幻想)として機能するのではないかと思っている。
「こんな私にも素敵な彼くんが」が、女性にとってニーズがある(ファンタジーとして機能する)から、そういう作品が生まれるのと対置される。
つまり「こんな私にも素敵な彼くんが」に対置されるのは、「こんな俺にも素敵な彼女が」ではない。
「こんな俺を選んでくれた素敵な彼女を振り切ってゴッドハンド化する俺」なのでは、というのが自分の考えだ。
「こんな私にも素敵な彼くんが」は、どういうファンタジーなのかと言うと、「周りに比べて無価値、もしくは等価値である(と自分では思っている)自分が、誰かから『たった一人のかけがえのない人』として選んでもらう」
少女漫画の中でも恋愛がテーマのものに多く見られる「誰かに選ばれることによる自己実現」だ。
それに対して「こんな俺を選んでくれた素敵な彼女を振り切ってゴッドハンド化する俺」は、「素敵な彼女であろうと仲間であろうと友達であろうとすべてを捧げる悪になってでも、無力であることを拒絶する」というファンタジーだ。
「無力であることを拒絶する」とは何かと言うと、「主体的に動く(動かす)側に回る」ということだ。
見るー見られる、選ぶー選ばれる、判断するー判断される、評価するー評価される。守るー守られる。
主体ー客体で分かれるときに、男にとっては「主体(選ぶ側、動かす側)であること」がファンタジーとして機能し、女性にとっては「(特別な)客体(選ばれる側、受け手である側)であること」がファンタジーとして機能する。
もう一度注意を入れると、「個人としての男性・女性」ではなく、「社会的規範としての男らしさ・女らしさ」にとってのファンタジーがこういうものなのだろう、という話だ。
「例え全てを捧げる悪になろうと、無力であることを拒絶する。というより、無力であること自体が悪である」という「男らしさ」というファンタジーが機能し続けている社会では、いわゆる「弱者男性」は生きづらいだろうなと思う。
では「男らしさを捨てたい人は、個人として捨てればいいのでは?」という意見をたまに見るが、これはこれで色々と考えたことがある。
「社会規範である男らしさ」が何であるかと言うと、「男の力の方向性を矯正するための内的装置ではないか」というのが自分の考えだ。
「男の力を制御するために社会が共有する内的規範として埋め込まれ、常にその力が人を傷つけるだけの『暴力』にならないようコントロールするために発明された装置」が「男らしさ(『男はこうあるべき』という内的規範)」*1では、思う。(あくまで『内的規範』なので、より暴力的になるなど誤作動を起こしている場合もあるが、元々はそういうものだろうという意。)
そう考えると「男特有のキツさ」は、
①無能(無力)であることは悪である。そのため常に主体的、能動的、選択的で存り続けなければならない。
②生まれつきの力(性欲なども含む)とそれを制御する社会的規範(男らしさ)が、そもそも矛盾しているので(生まれつき持っている物を抑え込むよう規範が働いている)存在自体に自己矛盾を抱えている。
このあたりではないかな、と自分は考えている。
もちろん女性には女性のキツさがあるし、じゃあそういうのをどうしていくかもツラツラ考えているのだけれど、それはまた別の話になるのでこのへんで。
女性の場合は、「ハッピー・マニア」や「グロテスク」を読むとわかりやすいかもしれない。
「ベルセルク」は古臭い価値観が描かれている、と言いたいのではなく、そういうわかりにくいことをストーリーに組み込んでなおかつ面白いところがすごい。
自分にとって面白いもの(考えさせられるという意味も含めて)が、自分にとっては「いい創作」だ。
「グリフィスがなぜゴッドハンドになったのか?」は、この同人誌の説が一番納得がいった。
*1:「鬼滅の刃」は、男に限らず「力あるものは、その力を自分のために使ってはならない」という内部規範が、かなり強固に働いている。「力」の取り扱いに恐ろしいほど過敏な話で、自分から見ると「ちょっとストイックすぎないか」と思うくらいだ。そういう「自分とはちょっと違うな」と思えるところが好きなんだけれど。