長江俊和の「出版禁止 死刑囚の歌」を読んだ。
「放送禁止」という深夜のテレビ番組があって、そこから派生した作品らしい。紹介を読んだら「放送禁止」も面白そうだった。元々モキュメンタリーは好き。
ネタバレなし感想
「放送禁止」と同じように、こちらも「モキュメンタリー」だ。「ライターが雑誌に掲載した記事」など、現実で書かれた文章をつないだ形式になっている。
この形態はノンフィクションとして臨場感が出るという効用の他に、「この雑誌のこのライターは、こういう切り口で記事を書いているから、視点がこう固定される」自然さにつながっている。
三人称視点だと「ここを伏せているのはアンフェアでは」と感じたり、一人称だと「ここに気づかない語り手が無能さに、作者の作為がある」と感じてしまいやすい箇所が、「そもそもこの語り手の目的は、事件の解明じゃない」「ここはこう考えていても、記事にはできない、というのは分かる」などと納得しやすい。
それでも何か所かちょっと強引では、と思う部分があったが細かい突っ込みはどうでもよくなるくらい、読んでいる間は面白かった。
特に中盤以降、序盤で見えていた構図がひっくり返り出すと、真相を早く知りたくてどんどん読み進めてしまう。
この話の魅力はストーリーの吸引力と、死刑になった望月辰郎の人物像にある。
望月の存在は、面白さ重視のエンターテイメントであるこの話の中で、一人だけ浮いている。
望月の思想自体はそれほど目新しいものではないけれど、この「楽しむための絵空事」として作られている話の中に投げ込まれると、すさまじい異物感がある。
面白さでぐいぐい引っ張る話の中に、望月という「飲み込みにくいもの」を入れたところ、入れた割にはその思想を最終的なテーマとして語らず、エンターテイメントで終わらせたところが、この話の一番良かったところだ。
ただ読み終わったあとは、個人的に首をひねる箇所があった。
以下はネタバレ感想で。
*以下ネタバレ感想なので、未読の人はご注意ください。
ネタバレ感想
読んでいる最中はすごく面白かったけれど、結末まで読むと「うーん」と思った。
例えば小椋夫妻は子供たちを虐待していたが、家の中だけならばともかく、裸で犬小屋につないでいて、それを目撃されている。周りからは「虐待の家」と噂されていたが、事件発生当初はそれがほとんど話題にならず「中傷」で済ませてしまうなんてありうるかなと思う。
序盤に出てきた鞠子のママ友の鈴木香や永井タエは、まったく虐待に気づいている様子がないが、「虐待の家」としてけっこう有名だったのに?と疑問符が浮かぶ。
このあたりの事実の判明の仕方が不自然に感じた。
最後まで読むと、こういう「細かい引っかかる箇所」がこの話は多い。
結局、前夫の暴力が嘘だったならば、鞠子がなぜ失踪したのかがわからなかった。
小椋のところにわざわざいかなくても、前夫と結婚したまま子供を産んで、前夫を支配してもよかったのでは? と思う。
前夫を支配できなかったから逃げた、というそもそも「支配すること」が目的なら、結婚する前に「支配できる相手かどうか」を吟味するのではないか?
前夫と結婚したまま、小椋を支配するでもいいのでは、など疑問が多い。
要するに鞠子という人間の人物像や行動に、リアリティがない。(本当にそういう行動をする人間がいるかどうかは関係なく、「存在しうる」という実感が得られないという意味)
「楽園」の三和を思い出した。
登場人物は三和がやばい、怖いと言うが、自分には余りそうは思えなかった。生きた人間に見えなかった。
三和は「残酷でやばい人間」というよりは、「とにかくその場で一番悪く見えそうなことをやる自動装置」にしか見えない。人物像として、余りに雑だ。
そういう「悪い奴が親族にいる」「家族がそういう奴に取り込まれる」という状況を作り出すためにいるのかなと思うので、ちっとも現実感がわかない。頭にはてなが浮かびっぱなしだった。
(【ドラマ感想】宮部みゆき原作「楽園」のここが気になる。 - うさるの厨二病な読書日記)
今日香がいじめの首謀者に仕立て上げられた話にしても、人が一人死んでいるのに真相を漏らす人が誰もいないというのは、ちょっと考えにくい。
今日香をいじめの首謀者に仕立て上げることが可能だったのも、風向きひとつで人の心は一定の方向に走るという証明なのに、「人死にが出る」という大ごとで学校全体が口をつぐむように一致団結する、とは思えない。
「ある事象が起こったときは、『(例えば)人とはこういうものだから』という説明が根拠とされたあと、別の事象が起こったときに『人とはこういうもの』という法則が働かない」と、すごく気になる。
これが起こると、すごく気になる(二回言う)
「現実のルール」と「物語内のルール」は、例え現実を舞台にした話でも違うことがある。
自分はこの「物語内の特殊ルール」が面白かったり、その確固さを追求している話が好きなようだ。逆に「物語内ルール」を都合でコロコロ変える話は余り好きではない。
話の内容よりも、「この話、どういうルールで動いているんだ? お話の都合?」ということが気になって仕方なくなってしまう。
「そういうもんだライン」に収まりきらなくなると、この「外枠」が唐突に出てくる。
「リアルライン」や「エクスキューズ」や「そういうもんだライン」は、この「外枠」を意識させないために存在する。
「外枠」は物語と現実を分けるラインで、「読み手としての現実の自分」と「物語という回路を通っている自分」を分けるものだ。
「外枠」を認識した時点で、物語回路に読み手はすでに存在しない。その読み手に対して、その物語は機能していない。
「外枠」を意識したいと思っていないのに意識してしまった場合、物語世界に戻るのは難しい、というより自分個人の考えでは不可能に近い。
(「金田一少年の事件簿File2 異人館村殺人事件」を読んで、自分の「そういうもんだライン」について考える。 - うさるの厨二病な読書日記)
「悪意」というのはそんなはっきりしたものではないし、その因果は見えないということが描きたいのであれば、全編に「わかりにくさ」を浸透させて欲しい。ところどころ「わかりやすすぎる」ところが気になる。
「悪意のわかりにくさ」を見るのではなく、「『悪意のわかりにくさ』を描きたい」という意図が見えてしまう。
「わかりにくさ」を描くのは「わかってもらえない(わからないからつまらない)」といわれるリスクをどれだけ引き受けるかとワンセットだと思うけれど、このあたりきっちり引き受けている話のほうが好きだな。
とここまで書いて気づいたけれど、前に「気持ち悪い」を巡る話で同じことを書いている。
ただこう思っていてさえ、結末を知るまでは早く先が知りたくて本を置けなかった。
読んでいるあいだわくわくさせてくれ、望月の人物像も秀逸という良さがあるのだから、他の事をあれこれ言うのは欲張りすぎなのかもしれない。