うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【小説感想】一人で船に閉じ込められ、浄土を目指す捨身行で何を思うのか。井上靖「補陀落渡海記」

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【小説感想】二転三転急転する展開のすさまじい吸引力が楽しいけれど、オチが気になった。「出版禁止 死刑囚の歌」

 

先日読んだ「出版禁止 死刑囚の歌」に出てきた「補陀落渡海」が気になって、調べたらこの本が出てきた。

そういえば、井上靖の作品は読んだことがないなあと思ったので、せっかくなので購入した。

「補陀落渡海記」自体は、30ページ超の短い小説だ。

 

「補陀落」は舵も何もついていない、内側から開かない船室、というより箱のような物に入って観音浄土を目指して沖に出る、死を前提とした捨身行だ。

元々は別にそんな掟も風習もなかったのに、何故か三代続けて住職が61の歳の秋に「補陀落渡海」をしたために、いつの間にか「補陀落寺の住職は61の歳の秋に、補陀落渡海をしなければならない」という暗黙のルールが出来上がってしまう。

様々な要因が絡み合った人の目には見えない法則性によって、じわじわ追い詰められていく話かな、と思って購入したが、そういう要素はあるもののそういう話そのものではないように思えた。

他の場所で感想として読んだ、逃れられぬ死を前にした人間の生死への葛藤を描いている、というのもそういう要素もあるけれど、それを主軸に描いているようには思えなかった。

 

「補陀落渡海記」はとても不思議な話で、たかだか30ページ超の短編の中に、それひとつを長編で語りたくなるような様々な重い要素を含みながら、どの要素にもピントが合っていない。

話はふわりふわりと色々な要素の上を蝶みたいに舞いながら、どこにも着地しないで淡々と進み、淡々と終わる。

それでいながら、その「淡々とした部分」に凄みを感じる話だった。

 

自分が「補陀落渡海記」から読み取ったものは、絶望というのは万人にとって共通する普遍的なものに見えて、それぞれコントラストがあり、人にはそれぞれの絶望がある。だが結局は、それは普遍的なものに回収されるから、その個々人のコントラストは無いも同然になる、ということだ。

なかなかしんどい話である。

 

「絶望」は「誰にとっても、これは間違いなく絶望である」という前提から似た状況が提示されがちだけれど、実は人によってだいぶ違うんじゃないか、ということを自分に教えてくれたのが「鬼滅の刃」だった。

 

何故かというと「鬼滅の刃」で「希望」として語られている(と自分が感じる)ものが、自分にとっては絶望だからだ。

「鬼滅の刃」で「希望」として語られているものを「絶望」として語っているのが、「進撃の巨人」であり(逆もまた然り)、この二作は自分にとってはコインの裏表である。

自分は「進撃の巨人」で描かれている「絶望と希望」(あくまで自分が描かれていると考えているだけだが)にはとても共感しているけれど、「鬼滅の刃」はそれが反転しているから、考えると憂鬱になる。

自分が感じる「絶望と希望」とは真逆のものを提示して、人にとって、絶望と希望というのは時に反転するほど違うことがあるのだ、ということを教えてくれたのが、自分が「鬼滅の刃」が好きな理由だ。

「補陀落渡海記」は、自分が「鬼滅の刃」に感じたことを淡々と説明してくれている感じがした。

 

「補陀落渡海」自体は、信仰がない人間にとって、それを強いられるというのは絶望でしかない。しかしその絶望を強いられた、もしくは進んで行った人間の絶望は個々人別々のものなんだけれど、結果としては「補陀落渡海」という普遍的な絶望に回収される。

どこにも救いがない……というより、個人の気持ちをすくい上げる「救い」という発想が入る隙間がない。

結局、どう絶望しようが、その絶望も一人で閉じ込められて流されておしまいですよ、と言われるとけっこう辛い。

「「出版禁止 死刑囚の歌」の望月にとっては、「どう絶望しようが一人で閉じ込められて流されておしまい」が希望だったわけだから、まあやっぱり人によって色々違うんだろうなあと思う。

 

絶望に限らず、自分の中の色々なものを大きくて普遍的なものに回収されないように、自分もこうやって事細かに色々と書いている。

それでもその普遍的なものの力が余りに強すぎて、どちらにしろ回収されそうな気にさせてしまうのがこの話の力であり、怖さだなあと思った。