それぞれの分野で活躍している第一人者たちが、コロナがもたらす変化と未来について語るインタビュー集。
その人たちの考えのごく触りを知って、興味のきっかけになる本だなと思った。
それぞれの話で興味を持った箇所のメモと感想。
青字が引用箇所。太字は引用者。
総合的な感想としては、詳細は違えどだいたい16人全員、似たことを話しているところが面白かった。(あくまで自分の読み取りなので、興味や視点が偏っているかもしれない)
①コロナはコロナそのものの脅威はあるが、それ以上に今までの生活がいかなるものだったかの見直しとして機能する。
(1)自分たちがコロナに対応できないリーダーを選んだのは(もしくは誕生を阻止できなかったのは)何故なのか。
(2)今までの「世界中旅行に行き、色々なものを消費して生きる」生活は正しかったのか。
(3)それらを考えることは、温暖化問題などこれから直面する課題の準備になる。
②コロナをきっかけに、人と人とのつながりがなくなりデジタルで代替すればいいという考えが主流になっているが、代替することはありえない。
(1)コロナは格差を強烈にあぶり出した。「コロナの感染リスクがあるならば、人と接触しなければいい」という考えを、実行できる人とできない人の環境の差を歴然とさせた。
(2)エッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちの重要性が見直されることをきっかけに、今まで「いいもの」として加速されていたデジタル化社会の発展が見直されるのでは。そうならずに、ますます「デジタルを利用し、人との接触を断とう」となることを危惧する。
端的に言えば「コロナは今の社会の危険性と『格差』をあぶり出した。コロナへの対応だけを考えてデジタル化を突き進むのか、もしくはこれまでの生活を見直してもう少しコンパクトに生きていくのか、を問われているのではないか。コロナはそういうことを考えるきっかけと捉えている」と、自分には読めた。
ただ冒頭に書いた通り、このインタビューでさえ、本人たちが考えて表してきたことのほんの触り程度だと思うので、興味が持った人については著作を読んでみようと思う。
ユヴァル・ノア・ハラリ(イスラエル/歴史学者・哲学者)
「サピエンス全史」がベストセラーになったハラリ。
市民にしっかりとした科学教育と強力な公的機関を提供する社会は、無知な国民を監視する独裁社会よりもつねにうまく感染症を乗り切るものです(略)
独裁体制のなかに解決策が見出せるとは思いません。反対に、解決策は信頼の回復のなかにこそあります。
強力な制限は、「一人一人の国民を信頼していないから制限する」という考えに基づく。この考えを基に政策を行うのは、先々のことまで考えると危うい。
ただ現実に感染リスクが高いと言われている行動をする人はいるし、そのために感染者が増えて医療従事者の人たちを始めが現場の人たちが疲弊していくのはどうするんだ、となるとそうせざるえない……。
難しいところだけれど、「コロナだからやむえずそうせざるえないという選択肢も含めて、もう少しこだわるべき問題」だと思う。
「コロナの緊急避難的な措置で私権を制限するが、それはコロナがなくなれば解除するから問題ない」という話で終わるものではなく、もっと根本的に「何か理由があれば(そしてその理由が適切だと判断するのも国家だが)平時は認められていた個人の権利を国家が制限してもいい、という発想を認めるのか」ということまで考えて、結論を出すべきだと思う。
今ミャンマーで行われている軍による弾圧も、ああいう状況が突然出てきたわけではなく、なぜ軍部がそういう強権を持っているかという過程がある。
「物事が今だけ、それだけで完結するわけではない」「今現在の結論が、先々の過程として積み重なる」という実感に基づいて、もう少し考えられもいいのでは、と思う問題がコロナでは多い。
民主主義の国においては、有権者には、いま起こっていることを忘れずにいて欲しいです。(略)
「強い国家」が意味する内容次第です。ナショナリズムが強い警察国家という意味でしたら、もちろん賛同はしません。
必要なのは、しっかりとした公共衛生システムと有能な科学機関、正しく情報を得た市民とグローバルな連帯です。(略)
これらが不充分だと、人びとが自分たちを保護してくれる独裁者や救世主を待ち望むようになります。
情報や知識がなくて不安で何かに頼りたくなると、目に見える強いもの(強権的な制度や指導者、原因と思われる人や事象)が目につきやすくなる。
結局は、一人一人が根拠があって確認された対策などの地道なことを、粛々とやっていくしかない。
今まで経験したことがないよくわからないことが起きている不安な状態で、変わらないことを地味に続ける、というのが一番大変なことだけれど、それが自分個人が色々な立場の人に対してできる最善のことだと思う。
エマニュエル・トッド(フランス/歴史人口学者・家族人類学者)
「アラブの春」や「ベルリンの壁」の崩壊を予見したことで有名なトッド。
トッドは何作か著作を読んだけれど、「その社会の家族システムが政治システムにそのまま反映される」という話が面白かった。
「社会主義が受け入れられやすい国は、兄妹の序列がない国で、日本のような伝統的には長子相続制の国では広まらない」、中東の(イトコ婚が認められている内婚制、一族の長である父親の権威が強い)国で、欧米の社会制度を「正しいもの」として持ちこもうとしても反発されるだけで広まるはずがない。
是非はともかく、読んでいてなるほどと思えた。
それに今回のウイルスで被害が大きかった国々は、長期的に見れば必ずしもほかの国々より失敗しているわけではありません。(略)
国の存亡を決めるのは出生数であり、特定の死因の死者数ではありません。ですから全体のバランスを見失ってはいけません。(略)
ドライな分析でたいへん恐縮ですが、社会の活力の尺度となるのは、子供を作れる能力であり、高齢者の命を救える能力ではありません。
一応、「お年寄りを救うのは、道徳上、絶対しなければならないこと」とも言ってもいる。
目の前で罹患した人は「道徳上」救うことに手を尽くすけれど、その人が結果的に亡くなったとしてもとられている政策や方向性が間違っているということにはならない、そこが指標じゃないということだろう。
「本当にドライな分析だな」と驚くけれど、トッド自身も70近い高齢者なので、そういう個人的な感情や感傷は排して、あくまで学者として見たときはこういうことだという話だ。
トッドは他の著作でも「エリートが責任を放棄して冷笑主義に走ったことがポピュリズムを生んだ」と批判しているけれど、とりわけマクロンには手厳しい。
「マクロンは現実に疎いのか、バカなのか、正気を失っているのかいずれかだと考えています」←ここまで言うか、と笑った。
ジャレド・ダイアモンド(アメリカ/生理学者・進化生物学者・生物地理学者)
なぜアメリカの政治文化が壊れてしまったのか。そこを問わなければなりません。
あれから何年も経ったいまふりかえって分析すると、人と人が対面でコミュニケーションをとる機会が、あの頃から急減したのが原因ではないかと考えています。(略)
これは、後述しますが、アメリカ人の「移動文化」が関係しています。彼らは生まれ故郷を遠く離れ、広大な国の端から端まで移動することが珍しくありませんからね。(略)
こうしたこともあって、アメリカでは階級や学歴の差で人びとが分断され、隔離されて暮らすようになったのです。
これに関連して、トランプ支持層やポピュリズムに走る人は、そうでない人に比べて一生の間の移動距離が少ない人(地元に留まる人)が多いということが語られている。
日本でも地方では地元に残る層と都市部に勤めるために移動する層に分かれるが、アメリカは国土が広大なので、この断絶がより急激で深かった。
「広大な国土を移動することが、政治思想や社会の分断に影響を与えている」という発想が面白かった。
世界の国々が一致団結して危機と向き合い、乗り越えるには、世界の人びとが共通のアイデンティティを持つことが必要です。そうしたアイデンティティが、行動の方向性に忠誠を尽くすことを可能にするからです。(略)
気候変動との闘いでは、グローバル・アイデンティティの構築が最重要課題です。
一時期「バカッター」が話題になったときに、「バカッターは所属意識の問題。社会からの評価よりも、自分のフォロワーからイイネをもらうこと(支持されること)に価値を見出せてしまっていることが問題の要点なので、企業がいくら罰則を厳しくしても意味がない。Twitterのフォロワー以上のロイヤリティを抱いてもらうように、企業は努力したほうが問題解決の早道」という意見を読んで、すごく納得した覚えがある。
人間は自分が最も強く所属していると実感できる(もしくは強く認識できる)共同体の評価を重視し、そこの価値観に従う、というのは自分もそう思う。
良い悪いの問題ではなく、人間の心の仕組みがそうなっているのは、昨今のSNSの騒動を見てもそう思う。
「国家に所属しているという意識のみが強いと、他国はこうなのに自国は」という発想になってしまう。各国間で調整すると同時に、「自分は国籍は〇〇であると同時に、地球に所属しているのだ」という意識を各人のあいだに育てた方が効果的なのでは、という発想は賛成だ。
気候問題に限らず、今後はこの意識なくして解決できない問題が増えていくので、今のうちに考えておいたほうがいい。
フランシス・フクヤマ(アメリカ/政治学者)
ポピュリストは民衆に対し現状維持を約束します。
彼らの重要な関心事や、地位や承認を得るための闘争について、ほとんど心配させないようにします。
私に言わせると、こうしたポピュリズムは、私たちが「歴史の終わり」を生きていることの補足的な説明なのです。と、いうのも、ポピュリズムは、ナショナリズムやファシズムといった過去に存在した思想を、控え目な形でリサイクルしているからです。
「ポピュリズム」がなぜ生まれて、どうしてそれを人々が支持するのかということはよく目にするのだけれど、ポピュリストがどういう方法論を取って歴史的に見るとどういうものなのか、という説明がわかりやすかった。
言動が極端で過激に見えるけれど、ポピュリストが約束するのは「現状維持」なんだ、というのは確かにと思った。
「現状維持を過激な言葉で主張する」からこそ、コロナのような予想外の新しい出来事で真価がおのずと現れるのかもしれない。
ジョゼフ・スティグリッツ(アメリカ/経済学者)
しかし、一年後なのか、二年後なのかわかりませんが、このパンデミックからほんとうに抜け出したとき、消費意欲が戻ってくると想定できます。(略)
このときのお金の流れをうまく利用して大きな政治課題に取り組むべきです。
富裕層に税をかけて格差を解消したり、炭素税を導入して環境問題に取り組んだりできるはずです。
私はGAFAが新型コロナ関連のフェイクニュースを減らすことができた事実に驚きました。これまでにもやろうと思えばできた、ということですからね。
ITがインフラとしてなくてはならないものになっている現状を考えると、巨大IT企業に向ける視線は厳しければ厳しいほどいいのではと思う。
ナシーム・ニコラス・タレブ(レバノン)
「巨大で予期せぬ衝撃に耐える力として『反脆弱性』というコンセプトを提唱する」
「『反脆弱性』は無秩序を歓迎する」
簡単に言うと、ある程度強固な組織(経済も組織である)を作るには、「無秩序」が必要であり、その無秩序が起こったときのために「反脆弱性」という力を養わなければならないという考え方だ。
実際にトレーダーとして現場で働いたことがある経験から来ている実践的な考え方らしいところが、理を超えて面白かった。
「反脆弱性」という仕組みをどうやって組織に取り入れたらいいのか? という質問には「小さいことは美しい、という価値観を通して」だと答えている。
「反脆弱性」のあるものは、「ブラック・スワン」と呼ばれる巨大で予期せぬ衝撃に、うまく持ちこたえることができます。
私たちは成長を助け、強くしてくれる小さなリスクと、身を守らなければならない巨大で極端なリスクを区別する必要があります。極端なリスクはパラノイア的に警戒し、有益な小さなリスクは取るのです。
それなのに、現代の官僚主義はその逆に誘導しています。
現代の政治は、細かい目の前のリスクは回避し続けて、いざ山積みになってどうにもならなくなった大きなリスクはそのまま放置するか極端な方法で切り離すかしているように見える。
「リスク管理が下手というより、かなり場当たり的なのでは?」「普段、すべてにおいてリスクを取らずに小手先で回すから、いざ大きな衝撃が来た時に、細部が上手く働かず右往左往するのでは?」というのはコロナで分かったことかもしれない。
エフゲニー・モロゾフ(ベラルーシ/ジャーナリスト・テクノロジー評論家)
ソリューショニズムのテクノロジーを使って個人の行動に影響を与えるほうが、難しい政治問題と格闘しながら危機の原因を取り除くより、はるかに楽だという側面もある。(略)
いまや、私たちはすでにソリューショニズムの信者だ。
自分の命が危機にさらされているとき、政治が約束する抽象的な「人びとを問題から解放する話」より、いつ外出すれば安全なのかを知らせてくれるアプリのほうが、安心できるからだろう。
いま問うべきなのは、私たちがこれから先もソリューショニズムの信者であり続けたいかどうか、ということだ。
ハラリのところでも書いたけれど、「今だけだから」とか「今は仕方ない」ではなく、「今だからこそ」こういうことを考えるべきだと思う。
「政治が約束する抽象的な『人びとを問題から解放する話』より、いつ外出すれば安全なのかを知らせてくれるアプリのほうが、安心できる」を政治がやっている。
考えないで事象だけが積み重なって「結果的にこうなった」というのと、「考えた結果こうなった」ではまったく違う。日常の細かい作業とか出来事なら、「過程と結果では結果のほうが大事」と思うけど。
国や社会の方向性では、「今は結果でも、それがすぐに将来に向けての過程になる」という点を外さずに考えることが大事だと思う。
(デジタル・プラットフォームや通信会社の)関心はただ一つ、マイクロターゲティングを続け、マイクロペイメント(少数決済)が流れ込み続けるようにすることだけだ。
だから、消費者に還元できない人間の行動を、匿名で集合的にとらえたマクロの知見、そうしたものを得るデジタル・テクノロジーが作られない。
いまのデジタル・プラットフォームは、個人化された消費者のためのサイトだ。互いに助け合う「連帯」のためのプラットフォームではない。
「作られない」と言い切るのはどうなのかな?と思わないこともないけれけど、自分たちの利益のために「個人」という輪郭を顕著にして、そのデータから利益を得ることを目的としている、そしてそのための誘導を絶えず行っている、という点は自分も賛成。
ツールなのでそれを利用して「連帯する」ことはできるのだけれど、プラットフォームの作り自体が個人の思考や嗜好や指向の中に閉じ込めるように出来ている(そこから利益を得るように出来ている)ので、その作りに抗うのはかなり難しい。
個人の資質がどうという以上に、プラットフォームの作りがそういう方向性に人を誘導しやすい。
ジャレド・ダイアモンドのところで語られていた、「人は自分が一番強く所属していると認識している共同体の価値観に従い、忠誠を尽くしてしまう問題」だ。
色々なところで指摘されている「使っているつもりが使われている」というのは、そういうことだと思っている。
便利な部分もあるけれど、「社会になくてはならないもの」ほど依存してしまうのは危うい。
ということを余り考えないまま「デジタル化促進」とかされると、大丈夫かいなと心配になる。
ナオミ・クライン(カナダ/ジャーナリスト・作家・活動家)
本書で二人出てくる女性の一人目。
国籍が欧米に偏り、女性が二人しかいなかったのはかなり寂しい。
コロナの感染拡大以降、「非接触型テクノロジー」という新しい呼び名が与えられました。コロナ時代の今、接触することが問題だというのがシリコンバレーの主張です。
しかし今、私達が一番恋しいのは、この触れるという行為です。
だからコロナといかに共生するか、その選択肢のメニューはもっと広げる必要があります。
繰り返しだけど「コロナは接触すると感染するから、触れなければいい」という考え方は、結論がそうならざるえないとしても、結論ありきではなくもう少し色々と考えたほうがいいと思う。
クラインが提案する「教員を増やして、クラス内の人数を少なくし接触を少なくすればいいのでは?」という方法は財源はどうするのか、とか教員の成り手がいるのかとか色々な問題はあるにせよ、それを考慮せず「リモート」もしくは一人一人の席を隔離する、それしかないと考えるのは危うい。
「コロナの間だけだから」と思っても、それがいつまで続くかはわからないし、そういう生活が人間……特に子供にどういう影響を与えるかなど、もう少し考えられてもいい。
ワクチンもどこまで感染を抑え込めるかわからないのに、ひとつの道筋しか考えられていない、そしてその理由が「コロナだから仕方がない」で終わってしまうところが気になる。
今回の抗議運動がこれまでと違うのは、非黒人が大勢参加していることです。これは間違いなく大きな動きです。(略)
いくつか思いつくことがあります。
一つは、パンデミックが私たちの生活にもたらした「優しさ」です。
これまであくせくしていた社会のスピードがゆっくりなれば、いろいろなことが感じられるようになる。他者との競争に明け暮れていると、他者に共感を覚える時間はほとんどありません。
そもそも流行が始まったときから、私たちはこのウイルスの出現によって相互依存や人間関係についての再考を余儀なくされています。つまり自分の手に触れるものすべてについて、「これは私が触れる前に誰が触れたのだろう?」と思わずにはいられないのです。
今回のパンデミックによって「他者への想像力がむしろ増したのではないか」というのは、面白かった。
人が人にとってリスクなるからこそ、人への共感や想像が膨らむ。
そこについては自分の中で変わったとは感じないけれど、そういう人が増えているのなら悪いことばかりでもないのかなと思える。
思ったより長くなったので二記事に分けた。
後編。