うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「新しい世界 世界の賢人16人が語る未来」の感想とメモ(後編)~トマ・ピケティ、マルクス・ガブリエル、マイケル・サンデルなど~

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前編の続き。

第三章「不平等を考える」

第四章「アフター・コロナの哲学」

第五章「私たちはいかに生きるか」

の感想とメモ。

青字が引用箇所で太字は引用者。

 

 

 

ダニエル・コーエン(チュニジア)

トマ・ピケティを指導した教師。

 

興味深いのは、産業革命でマルサスの法則が逃れられたと思ったら、今度は人類が「イースタリンの逆説」(年間所得が増えても生活の満足度は上がらない)という別の法則に支配されるようになったことです。(略)

農業が中心だった時代、人はマルサスの法則を理解できていませんでした。今は経済成長が無駄だと言っても、それを認めようとしない人がほとんどです。経済成長こそ進歩だと信じきっているからです。

でも、進歩の部分はほんの一部に過ぎず、大部分は社会の疲弊やエネルギーの無駄遣いだという可能性もあるのです。

 

これを多くの人が気付き始めているので、世界も気候問題や乱獲の禁止などの方向に向かっている。

自分個人が問われれば、不便だけれどももう少しミニマムな生活に切り替えたほうがいいと思う、と答える。

コロナは亡くなる人や生活が困窮する人もいる大変な事態だけれど、こういうきっかけでもなければいつまでも全体で目指す方向性は変わらなかったのでは、と感じる。

ただある程度経済成長をしている国に生まれたか、これから経済成長を目指す国で生まれたかでも意見が異なりそうな部分だ。その点において言い方がフェアじゃないように思えた。

 

この問題(経済成長の減速)は、もしかすると経済成長を無限に続けられると考えるのをあきらめ、質素に暮らすことを受け入れ、それに合わせて経済の仕組みを変えていくほうが賢明な解決策もあるかもしれません。

 

これを受け入れられるか、どこまで受け入れるのか。

ただ「〇〇以前にはもう戻れない」と決めつけることもないのかな、というのはこの本を読んで思った。

 

フランスでは「社会のウーバー化」という用語が誕生しました。これは社会から会社が減り、労働者の管理をアルゴリズムが担うようになったことを指す言葉です。

アルゴリズムは、労働者に対してつねに高い目標を求めるように設定されています。デジタル資本主義は、基本的にコストを下げる手段として発展してきており、残念ながら、人が働きやすい環境を整えてきたわけではありません。

 

(デジタル・プラットフォームや通信会社の)関心はただ一つ、マイクロターゲティングを続け、マイクロペイメント(少数決済)が流れ込み続けるようにすることだけだ。

前編ではエフゲニー・モロゾフがこう指摘していたが、デジタル・プラットフォームは、基本的には自分たちの利益を上げるためのみ駆動している。使う人間にどういう影響があるかは一切考えない。宗教や思想集団よりも閉鎖的で偏狭な空間にもなりうるし、ブラック企業よりも無慈悲な雇用主になりうる。

便利ではあるけれど、自分の生活のすべてを依存するのはちょっと危険すぎる。

「労働者の管理をアルゴリズムが担うようになった」では、「使う使われる」が転倒している。

 

医療と教育の分野は、人間として最低限の生活をするために必要です。この分野では絶対に給料水準を上げなければなりません。

そのためには社会が連帯して給与を上げさせることがとても重要です。

 

これは賛成。

特に基礎教育は学校の先生がもう少し、授業そのものに集中できるようになり、いい人材が多く集まって競争の中で職を獲得するようにならないと人材が育たないのでは、と心配になる。

家庭環境で私立には行けない子も、能力とやる気さえあれば学べる機会を作っていくのはその子のためもあるけれど、社会のためでもある。

新発見をする天才や世界に通用する人材を育てるという直接的な意味だけでなく、学びたい子が学べる社会を作ることがそういう人材が生まれてくる土壌になる。

 

 

 トマ・ピケティ(フランス/経済学者)

「21世紀の資本」が大ベストセラーになったピケティ。

 

私有財産を「時限化」せよ

私が提案しているのは、もう一度このモデル(最富裕層に対する所得税率が極めて高い水準まで引き上げられても、経済成長は続いた)に立ち返り、もっと先に進んでみるこです。

そのために資産への累進課税を提案します。

狙いは、ひとりの人間が持てる資産の額に時限的制約を設けることです。

 

ピケティは名前しか知らなかったが、こんな過激なことを主張していたのかと驚いた。

確かに上手く調整がつけば、巨大IT企業の歯止めになったり格差の問題を解消できる。

意外と面白い提案なのでは?

この時点で

①現在資産を持っている人間が賛成しないだろうから、実現は難しいだろう。

②「私有財産制の廃止」(とまではいかないにしても)につながる考え方は、社会主義に近い発想だが、歴史的に見ると失敗しそうと思うけれどどうなんだろう?

という二つの疑問が浮かんだ。

 

現状では、遺産を相続するフランス人は国民全体の半分でしかありません。だから「万人が遺産相続できる仕組み」を考案してみたんです。

25歳になったら誰でも一律に12万ユーロ(約1500万円)の資本を支給される仕組みです。12万ユーロといえば、フランス人の平均的な資産額の60%です。

 

これならば家庭環境による経済的な心配もなく学びたい人は学べるし、薄給だけれどやりたい仕事をしたい人もしばらく生活の心配はなくなる。起業したい人は資金に出来る。

年齢が高い人の稼いだ分を若い人に回すという発想だから、経済活動の活力も失われない。

ベーシック・インカムでは財源が問題になるけれど、これならば解消される。

すごい、と思うが、まあ富裕層は反対に回るだろうしロビー活動に力を入れるだろうから難しいだろうな。

元々フランスには「連帯富裕税」(130万ユーロを超える資産が課税対象になる。それにしても凄い名前だ)があったが、2018年に廃止された。ピケティの主張と逆行している。

 

マクロン大統領は炭素税の増税を試みましたが、(『黄色いベスト運動』が起きて)増税を中止しました。この失敗が示すのは、まず格差を縮小しなければ、気候変動の問題を解決できないという現実です。

庶民階級や中産階級に努力を求めるなら、まずは富裕層が最低でも同程度の努力をしている証拠を示さなければなりません。

 

日本でも増税をすると支持率が下がるから導入を見送る向きがあるが、広く薄く取ろうとするから反対するのであって、資産に累進税をかけるなら富裕層以外は気にしない。

消費税は一見公平に見えて不公平感が大きいから反対される。

相続税は「相続すること」を前提として掛けられるから廃止して、直接資産への累進課税を導入してもいいと思う。

 

 

エステル・デュフロ(フランス/経済学者)

女性二人目。2019年に史上最年少でノーベル経済学賞を受賞。

 

(著作のなかの、同性カップルにウェディングケーキを売ることを拒否した洋菓子店から、ホモフォビアへの反対から多くの顧客が離れていったが、同時に一部の客からは人気を博したエピソードに触れて)

理論上は「差別主義者は市場では生き残れないので危惧する必要はない」となるかもしれません。

しかし実際はそうではありません。

同性愛者がこの店で買うのを止めても、キリスト教右派などがその埋め合わせをするからです。

 

「一部の支持者がいれば十分成り立つため、むしろ積極的にnot for you層を作る」という戦略はどの分野でもよく見かけるが、差別などでそれを作る構図には嫌悪を感じる。それが有効に機能してしまう話を聞くと、暗たんとした気持ちになる。

「有効に機能する」からこそ「分断」を起こそうとする人間が使う。

 

 

マルクス・ガブリエル(ドイツ/哲学学者)

マルクス・ガブリエルはずっと本を読みたいと思っていたので、どんなことを話しているのか楽しみにしていた。

 

日常の買い物、例えば子供のおもちゃや、鎮痛剤、車などを買ったりするとき、こうした商品の生産チェーンのせいで、多くの場合、誰かが犠牲になっています。

私たちは皆、他者の苦しみに責任があるのです。

互いにつながった邪悪なシステムを築き、チェーンの末端には、清潔な水がなかったり、作物が不作だったり、あるいは搾取されたりした結果、命を落とす人が常にいます。

これがモラルに反した行動がもたらす、感染の連鎖です。一つの病ともいえます。

 

元々そういう世界だったが、コロナはそれを可視化した。(部品供給網が世界に張り巡らされていることを意識させた)

学生運動が盛んだった時代でも、「自分は資本主義の搾取構造の一部である」という考えが学生の間で浸透していた。この考えがいきすぎると「人とつながって生きること自体が、必ず誰かから搾取している。少なくとも今までそうやって生きてきた」という存在否定になってしまうので、自分はそこまで賛成は出来ない。

ただ今、世界で苦しんでいる人と自分の生活が地続きであることは考えて、その仕組みを意識して変えていかなくてはならないとは思う。フェアトレード製品かどうか気を配って、そういうことが考えられている企業かどうかで製品や株を買うかを決めるなど個人で出来ることはやっていきたい。

微々たることだけれど、そういう考えが広まっているように見える。

 

私たちは、民主主義が命すらも差し置いて自由を優先することに価値を認めています。「法の支配」は、虐げられて生きるくらいなら死んだほうがましだと考えた英雄たちが起こした革命によって確立されました。(略)

(コロナ下の今は)自由よりも、命や生き延びることに価値が置かれています。今ほど私たちの自由が制限されたことはありません。

 

前編の感想でも書いたけれど、この問題はもう少し考えられて欲しい。

「命と自由」は両方大事で比べられるものではないけれど、「ミャンマーのような状態になったら、命をかけて自由を求めるが、コロナが理由ならば政府に自由を制限されても仕方ないと思う」のは何故なのか。

最終的に「仕方ない」と思うにしても、仕方ないのひと言で考える過程を飛ばしてはいけない問題ではと思う。

 

現在のジレンマは、取られている措置が「事実」ではなく「フィクション」に基づいている点です。なぜなら、このウイルスに関する事実がわからないからです。

いくつかの可能性は、ウイルス学やコンピュータ・シミュレーションのおかげで把握されています。

私たちはシミュレーションを生きているのです。

 

コロナの実態も対応もワクチンの効果も手探りで進んでいる。経緯からわかったこともあるけれど、「それが本当に根拠となる事実か」ということを確かめてから対策を取ることはコロナに関しては出来ない。

そういう意味では、自分たちの今の経験自体が、いま生きている世界の様相が壮大なシミュレーションというのは確かにと思う。哲学者っぽい視点だなと思った。

 

 

マイケル・サンデル(アメリカ/政治哲学者)

サンデル教授に言わせれば、能力主義の文化は、勝ち組を傲慢にし、置いてきぼりをくらった人たちに対して優しさを示さない社会を作ってしまったという。

見下された人びとの不満と怒りから世界各地でポピュリズムの抗議運動が起き、トランプ政権を誕生させたというわけだ。

サンデルが提言するのは、成功と失敗の概念を再考することだ。

 

トッドがエリートの冷笑主義がポピュリズムを生んだと指摘したり、ピケティが資産に累進課税をかけるべきと言ったように、サンデルも格差や「勝ち組の傲慢」がポピュリズムを生んだと指摘している。

 

エリートから、そんな風に見下されれば、労働者階級の人びとの怒りと不満が大きくなるのは当然でした。正当でもありました。(略)

トランプなどの発言が醜いせいで、トランプなどを支持する人たちの訴えが正当だということになかなか気づけていません。

 

サンデルの発言で一番興味深かったのはここ。

サンデルはトランプと「トランプ支持者」は、分けて考えなければならないと述べている。

トランプが超国家主義や外国人の排斥などを行っているため、トランプ支持者の人たちもそういう人間なんだという眼差しで見ることは間違いなのだと。

トランプ支持者がトランプを「支持せざるえなかった」その怒り自体は、正当なものであり、それを認めないことが中道左派やいわゆるエリートの過ちや傲慢さなのだ。

自分もトランプを支持する人はよく理解できないと思っていたので、これは反省した。

もちろん暴動や差別などまったく賛成できない行動を取る人はいるけれど、それはトランプ支持者に限らないし、トランプを支持する人のすべてがそうであるわけでもない。

「能力主義には、暗黙のうちに人を見下すところがあったということか?」というインタビュアーの質問は、そうかもなあと思った。

 

(「能力主義の傲慢」に挑むには)民主主義国の市民が分かち合う公共空間を作り直さねばなりません。民主主義に相応しい暮らしに必要な市民のインフラを作り直し、階級が異なる人や生活条件が異なる人が出会えるようにするのです。

市民生活を刷新して、活性化させていくのです。

 

前編に出てきたジャレド・ダイアモンドと同じで、サンデルも分断を「物理的な距離の問題」ととらえているところが面白い。

アメリカが国土が広いから、というのもあるのだろうけれど、ネットだとむしろ分断は深まる、というのは今現在を見ていても分かる。

 

 

スラヴォイ・ジジェク(スロベニア/哲学者・精神分析家)

へどが出るほどポリティカル・コレクトネスを嫌い、右翼も左翼も痛烈に非難する哲学者であり、文化評論家でもあり、思想の発動機でもあるジジェク。

 

この紹介文だけで「面白そうな人だな」と思った。

 

ジジェクは著書「パンデミック 世界をゆるがした新型コロナウイルス」の中で、精神分析家ジャック・ラカンの手法を用いて、私たちが住む社会的・物質的空間である「リアリティ」と、目に見えないがゆえに全能に見える空間「リアル」をわけて考えるべきだと提唱している。

ジジェクによれば、リアルがリアリティの一部になったとき、人は初めてその問題に向き合えるのだという。

ジジェクはコロナ危機の最中に労働者を二つに分類した。

コロナに立ち向かった結果、ウイルスが日常のリアリティの一部になる医療従事者、福祉関係者、農業従事者、そして食品業界で働くいわゆるエッセンシャル・ワーカーと、自宅待機を続けるがゆえにコロナがリアルのままの人びとだ。

 

自分もコロナに関しては「未だリアルのまま」の人間だ。

同じコロナについて話していても、コロナをリアリティとしている人とリアルのままの人間ではまったく違うものを話しているくらい違うだろうことは想像がつく。

コロナ第一波のときに「医療従事者をヒーローとして描く」という企画に反発する医療従事者の人の「私たちはヒーローなんかじゃない」という言葉がSNSで話題になったけれど、あれが正にリアルとリアリティの差を表していた。

リアルとリアリティの差は、コロナだけではなく、色々な場面で問題になる。

自分はネットが「目に見えないがゆえに全能に見える空間=リアル」だと思うけれど(そこから色々な問題が起きているけれど)、そういう空間であるということを心にとめておけば悪いことではないし、いいこともたくさんある。

ただ問題は、リアルとリアリティの違いを実感しにくいから、前述したような問題が起こりやすいんだろうなと思っている。

全然関係ないけれど、この部分を読んだ瞬間「私がシンボルからサブスタンスになる瞬間、リアルを取り戻すの」を思い出した。懐かしい。

 

フランスの哲学者ブルーノ・ラトゥールの言葉を引用したいと思います。

彼は「コロナ危機は、人類を待ち受けている地球温暖化や新たな感染症といった将来に向けてのリハーサルだ」と言っています。これは悲観的というより、非常に現実的な見解だと思います。

 

コロナの教訓を、今後起こるだろう問題について活用すべきだ、ということは他の人たちも繰り返し言っている。

 

 

ボリス・シリュルニク(フランス/精神科医)

日本でも米国でもカナダでも、多数の男の子が苦しんでいます。

幼いころからいい成績をとるように期待されているのですが、彼らの発達段階では、まだそのようなことをするのは無理なのです。怖気づいてしまって、自分の部屋に閉じこもってゲームで遊ぶようになり、友達と会わなくなるリスクもあります。

イスラエルは対照的です。

この国の学童は初等教育の時点では成績は凡庸です。ところが高等教育になると、きわめて優秀な学生になるのです。

これはゆっくり学ぶことの利点だと思っています。

 

「男の子」となっているが、女性についてはこの前の部分で言及している。

基礎はゆっくりじっくり学ばせて、高等教育や専門分野のときに勉強に集中させたほうがいい、という意見には頷く部分が多い。

人生が80年ある時代なのだから、教育のモデルケースを根本的に見直してもいいのかもしれない。学びたい人は80歳まで勉強してもいい。

これも能力主義の話につながる話だと思う。

 

テキストの講読の授業を、オンラインでも、実際の教室でも受けられるようにして、学生には好きなほうを選ばせました。

テキストの内容をよく記憶できたのは、実際に顔を合わせてやりとりをした学生のほうでした。テキストを読み上げるときも、教室にいた学生のほうが感情を込めていました。それが記憶の土台となるのです。

 

関連した話では、デジタルの教科書と紙の教科書の話では、紙の教科書のほうが記憶の定着が良いというのは各所でデータを出して指摘されている。

リモートと実際の対面授業の違いと同じで、単純に記憶のフックになるものが多いからだと思う。

低学年だと教科書の持ち運びが大変、とか色々事情もあるだろうが、低学年のうちだけでも紙の媒体はなくさないほうがいい。

デジタルやリモートにはその良さがあり、実際の講義や紙の媒体にはその良さがある。

それぞれは別で決してお互いの代替にはならないのに、安易にデジタル化しようと動きは心配。

 

 

アラン・ド・ボトン(スイス/哲学者・作家)

あなたは家でほとんどの時間の時間を心地よい、暖房のきいた明るい部屋で過ごしています。家の中にはもう一つ部屋がありますが、そこには入りたくありません。

なぜならその部屋には気味の悪いものがあるからです。

けれど、一時間だけそこで過ごしてみてはどうでしょう? ただ灯りをつけて、そこに何があるのかを見てみるのです。

(略)

誰もが同じ道筋を通りのですから、知っていればとても役立つでしょう。

あなたの番が来ても、罰だと感じる必要はありません。罰ではないのですから。

 

この人の話し方や言葉の選び方が好き。

シビアなことを話しているけれど、言葉が詩的で柔らかいから余りそうだとは感じない。ちょっと宗教説話的な感じはするけれど。

 

現実が暗闇だからこそ、輝くようなレモンや花の絵が必要なのです。根拠のない空虚な希望や、「すべてがうまくいくから心配しないで」という安易な慰めではなく、マティスの希望こそが私たちには必要なのです。

つまり、私たちには「絞首刑の希望」が必要なのです。人間は皆、最終的には絞首台へと向かいます。

 

「人間は皆、最終的には絞首台へと向かいます」

この言葉、繰り返したくなるな。

 

「哲学のなぐさめ」を買おうと思ったら、単行本は絶版なのかな? やたら高い。

小説は一作も翻訳されていない模様。寂しい。

 

インタビューされた人たちの考えをもっと詳しく知りたくなる面白い本だった。

元々、興味があった人以外では、 「反脆弱性」を唱えたナシーム・ニコラス・タレブ、「欧米で最も過激な哲学者」スラヴォイ・ジジェク、「絞首台の希望」を語ったアラン・ド・ボトンの本が読んでみたい思った。