タイトルが気になって衝動読みした短編。著者は「山月記」で有名な中島敦。
青空文庫やkindle版で無料で読めます。
文字とは何か、ということを的確に表した傑作。
文字を覚えて以来、咳が出始めた者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢をするようになった者なども、かなりの数に上る。
文字とは、ある対象物(「咳」だったら「咳」という事象)を指し示すものではない。
何物でもなかったものに区切りを与え、「咳」を生み出してしまうものなのだ。
「咳」という言葉(文字)が生まれるまで、それはただの「音を立てる呼吸の一種」に過ぎなかったかもしれない。
しかし「咳」という区切りが出て、その言葉を共有する人が増えるごとに、「音を立てる呼吸」の一部が「咳」として区切られ、「咳」という独立した事象が生み出される。
だから「咳」という文字が出現した瞬間、「咳をするようになる」のだ。
しかし「咳」という言葉が指す事象は本当は存在せず、それは「咳」という区切りが生まれ人々が共有することで生まれた(事象ではなく)「恣意的に形成された概念」に過ぎない。
しかし「恣意的に形成された概念」が生まれることで、事象が事実として出現し機能してしまう。
何を言っているんだ? という感じだが、言葉というのは「事象や事物そのものを指すのではなく、ある事物と事物の関係性や他の事物との差異を指し示す」というのが、構造主義の祖と言われるソシュールの言語学の肝のひとつ、だったと思う。ちょっと記憶が曖昧だけれど。
「『咳』という明確な事実を指し示すのが言葉ではなく、概念を区切る(差異を明確にする)ことによって『咳』という事象を出現させるのが言葉」という考えだ。(自分が理解した限りだと)
獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代わりに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代わりに女の影を抱くようになるのではないか。
文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中に入って来た。
今は、文字の薄皮をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。
言葉による「明確な区切り」が広まると、かなり強い力を持つので危ういところがある。
上記の例だと明確な事物(だとかなり広く、概念が共有されている)の事例なので「そんなわけがない」と思うが、もう少し曖昧な例だとよく見かける。
事実を示すのが言葉ではなく、言葉によって事実が生み出される。
「日本語の『氷』を指す言葉は、エスキモーには約五十個ある」という例をどこか読んだ。
日本語を使う人間同士の間では「氷」しか存在しない。しかしエスキモーの人たちの間では、「氷1」「氷2」……「氷50」が実際に存在する。
「氷50」は存在するのか、しないのか。誰も区切っていない「氷51」は存在しないのか。
「存在する」とは一体何なのか。その概念自体がひっくり返るのが面白いなあと思った。
曖昧な定義で新しい概念が生み出されて、その概念が「それを指す(他と区切る)言葉があることによって、事実として機能してしまう」事象は、ネットでは割とよく見かける。
事実そのものではないのに、大勢の人がその概念を言葉で共有することで事実として機能してしまう、というところが文字や言葉の面白いところであり、怖いとも思うところだ。
そういうことを物語にして、短編で綺麗にまとめられる。文字のプロはすごい。