※ネタバレがあります。未読の人は注意してください。
4月24日二巻が発売されたので、さっそく購入して読んだ。
「後ハッピーマニア」を初めて見たとき、正直すごく不安だった。
「面白くなかったらどうしよう…」とかなり失礼なことを考えていた。(←本当に失礼)
まったくの杞憂だった。「ハッピー・マニア」と同じように勢いがすごくて笑えて、脳を揺さぶり心に刺さる。
「ハッピー・マニア」や「後ハッピーマニア」の何が良いかと言うとひと口では語れない。
ストーリーも絵もキャラクターもギャグも全てが秀逸で、文句なしに面白い。安野モヨコは、特に演出の力が頭ひとつ飛び抜けていると思う。
自分にとって「ハッピー・マニア」は、社会で女性が強いられがちなことを的確に描き、それに反抗する作品だ。しかもギャグで。
「女性が強いられがちなもの」は、「性関係は派手ではいけない」「仕事と家庭のどちらかを選ばなければいけない」「選んだのだから『ちゃんと』こなさなければならない」という表層的なことではない。
その下にある「他者(社会)との関係で、常にその場の空気を読み、その関係性の維持に配慮し続け、受容する側でいなければならない」という規範だ。
以前、ネットで弱者男性の話題になったときに、「弱者男性と弱者女性では、辛さが違う。弱者男性の辛さは存在を無視されることであり、弱者女性の辛さは存在を否定されることだ」という論を読んだことがある。
「男は自己を主張しなければ無視される辛さ」があり、「女は自己を主張すれば否定される辛さ」がある。
社会から「良しとされる規範」が違うので、表面上、表れている事象で男女を反転させて比較しても意味がない。「その事象がなぜ起こるのか」もしくは「なぜ起こらないのか」をその底に眠る社会規範から考えた方がいいのでは、という記事を書いた。
「こんな俺にも素敵な彼女ができた」となぜ男が語りづらいかは、「グリフィスがなぜゴッドハンドになったか」を考えればわかるのでは説。
主体ー客体で分かれるときに、男にとっては「主体(選ぶ側、動かす側)であること」がファンタジーとして機能し、女性にとっては「(特別な)客体(選ばれる側、受け手である側)であること」がファンタジーとして機能する。
もう一度注意を入れると、「個人としての男性・女性」ではなく、「社会的規範としての男らしさ・女らしさ」にとってのファンタジーがこういうものなのだろう、という話だ。
自分にとって「ハッピー・マニア」は、
女性(の社会規範)にとっては「(特別な)客体(選ばれる側、受け手である側)であること」がファンタジーとして機能する。
このファンタジーをぶち壊す話だ。
「ハッピー・マニア」で好きなセリフのひとつが、重田が高橋に言う「私は私のことを好きな男なんて嫌いなんだよ」だ。
これは一見、「自分と釣り合うような男はイヤ」という上昇婚指向のセリフに聞こえるが違う。何故なら、高橋は重田にとっていわゆる上昇婚の相手だからだ。
これは自分が「選ばれる客体であることを拒絶し、主体であることを選ぶ」セリフだ。
恋愛体質なのに男を見る目がない、仕事も続かない、何事にもだらしない駄目女・重田の底に眠るのは、そういう精神だと自分は思っている。
「後ハッピーマニア」でも、「かつてややこしい関係になりかけた」三島に対して、
遠目で見てイケソーな気がしてたけど、会ってみたら年相応だからってガッカリすんな! 失礼なんだよ。(略)
大体なんで一方的に値踏みされなきゃ(ならないんだ)
と、面と向かってハッキリ言っているのを見て、「変わらないなあ」と嬉しくなった。
「(後)ハッピー・マニア」はこのときの三島に限らず、「他者(社会)とのありがちな関係」が的確に描かれている。(一見、理想の夫だった高橋も、この時の三島と同じ「一方的だった」ことを指摘されていることを考えると、なかなか根深い問題だ)
だから「状況を細かく読み続けて、関係性が調和するように配慮し合わせること」という、特に女性が期待され負わされがちな役目を放棄し、そこに突っ込みを入れる重田の言動が痛快なのだ。
「わきまえるって何?」という話なのだ。
人から駄目だ、馬鹿だという目で見られても、「主体である側、行動する側、責任を負う側」であったから、「値踏みされること、選ばれる側であること、評価を下される側であること」を拒絶できるのだ。
「ハッピー・マニア」の女性キャラたちは「主体である責任」を負い、「客体であること」を拒絶してきた。
人から見ると時に眉をひそめるような駄目なことでも、馬鹿のように見えることでも、重田は「自分にとっては何か違う」という感覚に、常に忠実だ。
それは世間から見れば、「駄目なこと」なのだが、そういう世間の規範よりも自分の感覚を取る。
そしてそういう自分の感覚に従ったことを反省したり後悔をしたりするけれど(そして何べんも同じことを繰り返すけれど)人のせいにはしない。
「主体であることの重みを背負い、判断し行動し続けること」は、「(特別な)客体(選ばれる側、受け手である側)であること」がファンタジーとして機能する規範と戦うことでもある。
しかし、そうやって生きてきた重田とフクちゃんが、四十代半ばで迎えた状況がなかなか重くエグい。
重田は高橋に離婚を切り出され、技能も職歴もない四十すぎになって一人で放り出されそうになっている。孫を望む義母は、離婚の条件が高橋に有利になるように画策している。
フクちゃんは事業には成功したものの、仕事に夢中になりすぎて夫はおろか息子まで愛人の下に行ってしまっている。
「いい妻、いい母親」になっていれば、「文句を言わず分をわきまえて、仕事も家庭も両立」していればこうはならなかったのか?
「後ハッピーマニア」は、規範に従わず生きてきた二人を、決して正しくも理想的にも描かない。むしろ若さというエネルギーを失ったぶん、そして失いたくないものが出来たぶん、二人にとって状況はずっと厳しく過酷だ。
ありとあらゆる角度から詰められ代償を支払わせ、ここまでやるか、という気になる。
「ハッピー・マニア」の時から、重田はカッコ良くも正しくもなかった。肯定的にも描かれていなかった。
どこまでも「自分の感覚と違和感」に忠実な姿と、それゆえの馬鹿さ加減がひたすら面白おかしく描かれていた。
どこまで規範に対する違和感を手放さないでいられるのか。どこまで、規範に従わないがゆえにそう見える底抜けの馬鹿さで突き進めるのか。
その行く末が予想がつかないから、先がとても気になるのだ。
フクちゃんまで詰められているとは。容赦ない…。
世間の規範に逆らい逃れるには、スティグマを押され放逐されるというとてつもない代償を払わなければならない。
女性の場合は、その烙印が「八月の光」「そんなモモコの青い春(ちさ×ポン外伝)」「グロテスク」と「性的な逸脱」という方向性で描かれやすいのは何故なのだろう? 観測範囲?