2021年5月14日(金)の読売新聞の朝刊に掲載された「動揺する民主主義 番外編 『奔流デジタル』識者に聞く」のひとつ、社会学教授クリス・ベイル氏による「分断解消 SNSで困難に」が面白かった。
SNSを巡っては、自分と似た意見にさらされることで特定の信念を増幅させる「エコーチェンバー」が、二極化を悪化させたと非難されてきたが、研究で興味深い結果が得られた。
ツイッターで民主・共和両党の支持者を、対立する政党を支持する人々やメディアの投稿にさらし、エコーチェンバーを取り除いてみたが、イデオロギーの対立や意見の二極化は解消しなかった。
逆に、自分と反対の極端で攻撃的な主張に繰り返し触れることで、それらを有害と感じ、自らのアイデンティティーを守るために既存の見解が増幅、硬化した。
共感よりも反発の力の方が強い。(略)
SNS上では、中道寄りの穏健派は沈黙する。対立する人々に加え、自分の側にいるはずの人々からも攻撃される恐れがあるためだ。
過激で極端な声のみが強調される「沈黙のスパイラル」と呼ばれる悪循環だ。
(太字は引用者)
どういう研究をしたのか詳細が書かれていないので、鵜呑みにはしづらい。
ただ、エコーチェンバーによって「周りが自分と同じ意見ばかりだから、自分は正しいと思い意見が過激化する」よりは、「自分と対立する意見が、あたかも自分の信条などのアイデンティティーをおびやかすものに見えてしまい、それを攻撃しなければ安心しておれない」というほうが、分断の要因としては大きいのではないか、という話は、言われてみればそうかもしれないと思った。
SNS上では、中道寄りの穏健派は沈黙する。対立する人々に加え、自分の側にいるはずの人々からも攻撃される恐れがあるためだ。
これもよく見かける現象だ。
「図式(他人の意見)を、極力単純化して理解したがる人」がいて、この人たちのために「単純化した図式を提示しようとする人」がいる。
こういう人は、本当の意味では対象となっている問題にほとんど興味がないのでは(興味があれば、より語る内容が多岐にわたり複雑になるので)と思うが、SNSは「ある意見を語ることが目的ではなく、自分という存在を主張するための手段なので意見を単純化、極端化させる人」ほど声が大きくなり、広まりやすいという作りになっている。
「その問題を問題と思っているための発言」ではなく、「その問題に賛否を叫ぶことが、その人のアイデンティティーになってしまっている」場合は、いかなる意見もその人の意思を覆すことはできない。
そして対立する意見は、自己の意見ではなく存在自体を脅かすものなのだから、それに耳を傾けるのではなく、攻撃して圧殺することが目的となってしまう。
「問題に対する一意見」として意見を言う「中道寄りの穏健派」は、口をつぐむしかなくなる。意見の理非など関係なく、消滅するまで攻撃されるからだ。
「自分のアイデンティティーから出てきた意見」が本来の「意見」の姿であり、「自分の意見にアイデンティファイしてしまう」のは本末転倒だ。
これはネットやSNSを使っていると、誰もが陥りやすい罠だと思う。
SNSは「自己という蛸壺」だと思っていて、多くの人とつながれるが「つながり方が自分という範疇を超えない」。
つながり方を最初から限定している(趣味垢や仲間内垢)などなら便利で面白いけれど、「自分の知らない多様な世界につながれる」という気持ちで使うと落とし穴が多い。
というより、それくらいの気持ちで使わないと、作りを考えたときに危ういなと感じる。
過激で極端な声のみが強調される「沈黙のスパイラル」と呼ばれる悪循環だ。
少し前までは、こういう傾向があるとはわかっていてもそこまで大きな害はないだろうと思っていたけれど、最近、大丈夫かいなと思うことが多い。
巨大IT企業側が、投稿削除やアカウント停止の規制のガイドライン作りを国に求めているというニュースも読んだ。
自分が作り出したものに脅威を感じて、他人に規制を求めているのは皮肉だなと思うけれど、それの何が問題でどこが要点かということは少しずつ分かり始めているのかなと思いたい。