うさるの厨二病な読書日記

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「初めてのラカン」としてわかりやすくて超おススメ。「疾風怒濤精神分析入門 ージャック・ラカン的生き方のススメー」

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ジジェクからラカンに興味を持った

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この本に出てきたスロヴェニアの哲学者にして精神分析家のスラヴォイ・ジジェクに興味を持って調べたら、ラカンの娘婿から精神分析を学んだ「ラカン派の精神分析家」であることがわかった。

 

そういえばラカンは全然触れたことがない。

フロイトの影響を受けた精神分析家で、構造主義の代表的な人くらいしか知らない。

哲学者の本は入門で考え方の概略を学ばないと、本人の本を読んでも訳が分からず読み進められないことが多い。

何かいい本はないかなあと思って探して見つけたのがこの本だ。

疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ

疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ

  • 作者:片岡 一竹
  • 発売日: 2017/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

評判も良かったので購入。

この本を読み終わったあと、向井雄明「ラカン入門」も読んでいるけれど、先に本書を読んでおいて良かったと思った。

「ハイデガー入門」のときも書いたけれど、哲学者や思想家は自分の中の概念を説明するために独特の語の使い方をしたり、造語が出てきたり、思想の変遷で語の持つ意味が変わったり、他の思想家の思想を前提として話したりするので、まずその人の基本的な思考マップをトレースしておかないと、細部を読んでも訳が分からないことが多い。

 

「疾風怒濤精神分析入門」は、そのあたりを考慮して「正確な意味や思考からは少しズレているかもしれないけれど、まずは理解のしやすさ優先」で説明してくれているのですごく読みやすかった。

読んだあともう少し深く正確に知りたければ、ということで末尾に読書案内もある親切さだ。

 

以下自分が気になった箇所のメモと感想。

自分が理解した限りなの話なので、正確な内容は本を直接読んでもらったほうがいいと思う。

 

精神分析の定義

「精神医療と心理臨床と精神分析は、何が違うのだろう?」ということはよくわかっておらず、「精神科医や臨床心理士がやる治療の言いかえじゃないのか?」としか思っていなかった。

「精神分析」は明確な定義がある手法らしい。

①言葉だけを治療手段に用いる(投薬などはしない)

この中でも「ラカン的精神分析」は「自由連想」のみを用いる。

②一番の特徴は「無意識こそがその人の本体である」と考えること。

③精神分析には「健康」の概念がない。

「ラカン的精神分析」では、人は必ず「神経症者」「精神病者」「倒錯者+(自閉症)」に分かれる。

 

「人間の生き方としては、健康よりも狂気が本源的です。健康の方がむしろ作られた状態なのです」(P20 )

フーコーも「狂気と正常の境は昔はもっと曖昧であり、狂気が病気とされたのはここ最近だ」と語っていた。「狂気という病」は、社会が便宜的に生み出したものだ、というのは考え方は面白い。

昔は狂気は「神」に近い領域で、例えば「カラマーゾフの兄弟」ではスメルジャーシチャが「神がかり行者」として、町の人から大切にされている描写が出てくる。

文化にもよるだろうけれど、「神がかり的な状態」が「健康」という視点から見ると「異常なヒステリー状態に見える」ことを考えると、「狂気が病」になったのはここ最近というのは頷ける。

「テロルの現象学」で書かれていた「集合観念」から「共同観念」に移行する段階で、「死を隠蔽するために」「神ー人」「狂気ー正気」を分離させた、という話と合わせて考えると面白そうだ。

「鉄血のオルフェンズ」を題材に使って、「テロルの現象学」の感想を述べたい。 - うさるの厨二病な読書日記

 

ラカン的精神分析の方法

「分析家は患者の語り(パロール)の意味を見つけるのではない。意味を切ることにが分析家の役割」

これはへえという感じだった。

ラカン的精神分析では、「寄り添い共感しつつ、患者の語ることの意味を見つける」ことを目的としていない。

「手にのった蝶を追い払う夢を見た」→「蝶は女性性を表し、あなたはそれに縛られることを嫌っている」のような解釈をするわけではないということだ。

むしろ「チョウ? チョウと言えば腸内環境はどうですか?」のような感じが近いらしい。

なぜ「意味を切る」のかと言うと、日ごろの「語り(パロール)」を切ることで、まったく別の「無意識のパロール」が浮かび上がってくるからだ。

ラカン派の分析では、「分析(をする)主体」はあくまで患者だ。分析家が分析をするわけではない。

分析主体である患者の内部から、無意識のパロールが浮かびあがってくるために日頃の意識の切るようだけれど……何も知らないで受けたら、すごい驚きそうだ。

 

ラカンにおける「無意識」「シニフィアン」とは何か

「『無意識』のバロール」の「無意識」とは何か。

「無意識」と言われると「モヤみたいなよくわからない混沌」のようなものを思い浮かべるけれど、ラカンの考えでは

無意識は「他者から受け取ったシニフィアンの集積」である。

無意識は「言語的な構造を持っていて、ある規則が機能している」

無意識とは「『他者』による語らい(ディスクール)である」

そうだ。

 

「シニフィアン」と言えばシニフィエ、ソシュールが思い浮かぶ。

ただラカンにおけるシニフィアンの定義はソシュールと少し違う。

ラカンにおけるシニフィアンは、それ自体としては意味を持たず(記号とは違う)他のシニフィアンとの連結によって意味を持つ語であり、人間のみが使う言語、だ。

人間の認識はこのシニフィアン(言語)によって、想像界(外部からの受け取るイメージ)をコントロールすることによって出来上がっている。

このシニフィアンによって出来上がった認識が象徴界である。

人間は「事実そのもの」ではなく、「シニフィアンによって外部イメージをコントロールした、自分固有の認識の世界を生きている」

「絶対的な事物(神の認識)は存在せず、混沌に対する解釈のみが存在する」ニーチェ以後はだいたいこういう考え方が組み込まれていることが多い。

 

人間は「シニフィアン」という指示対象を持たない言語を使っているのにも関わらず、「シニフィアン」(という意図的な連結によって意味が生じる言語)によって「現実」を認識している。

ということは、「人間が現実を生きている」のではなく、自分が物事を認識するのに必要な概念を生み出すことで、自分が生きる「現実」を創出しているのではないか。

この辺りは前々から考えていたのだけれど

【小説感想】「『山月記』の作者が語る、文字とは言葉とは何なのか」 中島敦「文字禍」 - うさるの厨二病な読書日記

 

ただなぜそのお互いの「個々の現実」が接続できるのか(接続した気分を持てるのか)ということがよくわからなかった。

でも本書で書かれている「無意識の役割」

無意識は「他者から受け取ったシニフィアンの集積」である。

無意識は「言語的な構造を持っていて、ある規則が機能している」

無意識は「『他者』という『法』の世界でもある」

を読んで、なるほどこれが機能しているからなのか、と思った。

「自己と『小文字他者』のあいだに起こる決闘を裁定するのが、『法=大文字他者=無意識』である」と考えると、割と納得がいく。

 

ラカンの人間の意識と認識の構造

ラカンにおける人間の認識の構造は

「現実(界)から受け取ったイメージを(想像界)、シニフィアン(大文字他者=法)によってコントロールして認識する(象徴界)」

恐らくこういう風になっているのではないかと思う。

人間の意識の構造は

「他者によって対象化、客体化された自分(ゆえに他者なくしては成立しない)」=自我

「自我ではないもの」=主体

こうなっている。

 

精神分析は、何らかの理由で抑圧されている「無意識のシニフィアン」と主体との結びつきを回復することを目的としている。

そうすることで、物事(想像界のイメージ)の捉え方や認識の仕方が変わり、生きやすくなることを目指す。

 

自分が理解した限りでは、こういう話だった。

そこに至るまでも「精神分析は一般性を食い破って、特異性が出てくることを目指す」「法」とは何か(法律ではない)、それはいかにして人の中に成立するか、なぜ「法」は存在するのか、人間の中に根源的に眠る欲動とは何かなど色々な話が書いてあって面白かった。

また前期ラカンと後期ラカンでは考え方がだいぶ変わった(特に現実界とは何かについて)の話など出てくるので、興味がわいた人は直接読んで欲しい。

 

現代でも役に立つ考え方だと思う

「新しい世界」でジジェクが語っていた「リアルとリアリティの差」は、「コロナというイメージを、自己の象徴界の法に基づいて語っている人」と「コロナという現実界の病に生きている人」の差を語っているのだと思う。

ジジェクは著書「パンデミック 世界をゆるがした新型コロナウイルス」の中で、精神分析家ジャック・ラカンの手法を用いて、私たちが住む社会的・物質的空間である「リアリティ」と、目に見えないがゆえに全能に見える空間「リアル」をわけて考えるべきだと提唱している。

ジジェクによれば、リアルがリアリティの一部になったとき、人は初めてその問題に向き合えるのだという。

ジジェクはコロナ危機の最中に労働者を二つに分類した。

コロナに立ち向かった結果、ウイルスが日常のリアリティの一部になる医療従事者、福祉関係者、農業従事者、そして食品業界で働くいわゆるエッセンシャル・ワーカーと、自宅待機を続けるがゆえにコロナがリアルのままの人びとだ。

 

自分もコロナに関しては「未だリアルのまま」の人間だ。

同じコロナについて話していても、コロナをリアリティとしている人とリアルのままの人間ではまったく違うものを話しているくらい違うだろうことは想像がつく。(略)

リアルとリアリティの差は、コロナだけではなく、色々な場面で問題になる。

自分はネットが「目に見えないがゆえに全能に見える空間=リアル」だと思うけれど(そこから色々な問題が起きているけれど)、そういう空間であるということを心にとめておけば悪いことではないし、いいこともたくさんある。

ただ問題は、リアルとリアリティの違いを実感しにくいから、前述したような問題が起こりやすいんだろうなと思っている。

(「新しい世界 世界の賢人16人が語る未来」の感想とメモ(後編)~トマ・ピケティ、マルクス・ガブリエル、マイケル・サンデルなど~ - うさるの厨二病な読書日記)

 

自粛を呼び掛けていた医師会会長がパーティーに出席したのを見ると、この差は知識などは関係なく、「イメージの正確さと強烈さ」が関係するのだろう。

 ネットはまさに「限られたイメージをどう認識するかの差」が露骨に現れる世界だから、「お互いの認識の差異」がぶつかりやすい。

今の時代の問題を考えるのにも役に立つ考え方だ。

「ネットと現実の差は何ですか?」「使う言葉によって意識や内面が変わるのですか?」など、具体例では色々言えるけれど、総体的に見ると何が問題なのかということがぼんやりとしてしまいそうな抽象的な課題が考えやすい。

 

余談:「エヴァ」と「ウテナ」とラカン

・何故、人に死の欲動があるのか。

「母という最初に出会う『小文字の他者』と一体化する享楽を人は望んでいる。

だがそれは「子供の主体を母がのっとること」を意味しており、「子供のモノ化→主体の消滅→死」であり、人の根源に眠る「死の欲動」はここから来ている。「象徴的父=法」はこれを防ぐために存在する。

 

「他者によって客体化された自分=自我」は、小文字他者(鏡像)との間にイメージを取り合う「決闘(デュエル)」が発生する。

「大文字他者」という言語によって機能する法の世界=象徴界に入ることによって、この決闘は終わりを告げる。

 

「エヴァ」と「ウテナ」を思い出した。

ただ作者がこういう思想を作品に埋め込んだというより、知らなくてもイメージとして直観しやすい考えだからこういうこともあるのかなと思った。

伊黒とグノーシス主義のように、集合的無意識みたいなものかな?と思うけれど。

ラカンが「エヴァ」や「ウテナ」を見たら何て言うのだろう、ということを想像すると楽しい。

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:向井雅明
  • 発売日: 2016/06/10
  • メディア: Kindle版