「創作に携わっている人でも小説を読まない人がいる」
「今の小説界隈で受けるのは、極端なことを言えばセリフ劇で日常の一コマを切り取ったものだ」
という話を読んだので、「小説を好んで読む人と読まない人」について考えていることを書きたい。
自分が今まで感じたことから考えただけの話なので、雑談程度に聞いて欲しい。
「スケジュールを管理していて、この先一週間の予定を把握するとき、頭の中に何が浮かぶか」
自分はこう言われると、文字みたいなものが浮かぶ。
「月曜日に銀行に行って、水曜日18時に車屋に行って、土曜日の昼に親がうちに来る」
文字そのものというより、概念みたいな感じだけれど、要は
「映像はほとんど出てこないか、車屋に行く自分や親と話している自分、のような予測される場(ストーリー)が浮かぶ」
相方は、自分の一週間の手帳が「映像として」パッと頭に出てくるそうだ。
「だから付箋を色分けしている。パッと頭に浮かんだとき、ピンクが出かけで、緑がその日までが締め切りの仕事で…って、手帳の映像が浮かんだ瞬間にわかるから」
さらに車の運転をしているときは何を考えるのか、と聞いたら、「風景や周りの看板を見て、ここにこんな店が出来たんだとか、前の車の色いいなとか」
要は視覚から得た情報を整理している。
ちなみに自分はこのブログに書いているようなことを考えている(小さい声)
「それだと、車の運転危なくない?」
と言われてぐうの音も出ねえ。(だから余りしない)
「ひとつの情報をどう考えるかは、人によって違う」ことは恐らく多くの人がわかっていると思うけれど、それ以前の「事物の中のどの情報をどの範囲で、どういう形で取り入れるか」も人によって違う。
「同じものを見ているのに、なぜこんなに感想が違うのか」は前提が間違っていて、そもそも「同じものを見ていない」。
もう少し細かく言うと、「見えるものが人によって違う」。
説明しやすいのでMBTIを用いると「目の前の事象を写真のように把握する感覚派(S系)」と「目の前の事象から自分が想起するものを情報として受け取る直観派(N系)」の違いだ。
ひとつのものから「どんな情報を受け取るか」も違うし、「その受け取った情報をどう認識するか(処理するか)」も違う。
「どちらか片方の機能しかない人間はいないので、あくまで偏りの程度の話」ということは前提として、わかりやすくするために大雑把に話すと、
S系の人は五感を使って、目の前の事象を細かく把握することに向いている。五感を使って得られる情報が多ければ多いほどいいのだと思う。
文章よりは映像のほうが認識しやすいし、小説よりは漫画、漫画よりはアニメ(ドラマや動画)のほうが把握しやすい。認識した情報を処理するのもそのほうが楽なのだと思う。
小説における地の文は(極端なことを言えば)ノイズにしかならず、セリフ劇のほうが映像に直結しやすい。
N系は外部から受け取った情報から、自分の中に想起されるものに注目するタイプなので、S系よりは小説に興味を持ちやすい。
よく言えば想像力がたくましい、悪く言えば妄想癖が強くて現実がおろそかになりがちなタイプだ。
これは「どちらのほうが情報として得やすいか」「情報処理が楽か」で、「だから映像しか見ない」「だから小説しか読まない」には直結していない。
自分も映像も見るし小説も読む。
ただ文章の出来不出来、内容がどういうものかなど以前に「情報を取り入れる手法として、長い文章を読むことを生来的に好むかどうか」という分岐点があるのでは、と思っている。
「なぜ、明らかに情報量や情報の取捨選択の自由度が少ない媒体(文章)を好むのか」もっと言うと「なぜわざわざ情報量を限定するのか」とどんどん突き詰めていくと、明らかに(文字しか情報がなかった時代ならばともかく)不思議な癖だ。
「誰でも手軽に動画や映像で情報を発信でき受信できる時代に、何故か文章という限定された情報を好む人」
第一段階としてこのハードルがある。
次に自分の周りに多い「本(文章)をたくさん読むけれど、小説(創作)は一切読まない」こういう人もいる。
これが第二段階。
この二段階を超えた先にいるのが、「暇な時間を費やすものとして、小説を読むことが選択肢に上がる人たち」だ。
この(たぶん)ごく限られた人たちを対象として、映像作品やその他のコンテンツと戦って読んでもらわなければならない。
すごく効率が悪い。
冒頭に話を戻すと
「今の小説界隈で受けるのは、極端なことを言えばセリフ劇で日常の一コマを切り取ったもの」
こういう作風の人は、文章という手法で映像(作品)を好む人にもリーチしようとしているのでは、と思う。単純にターゲット(選択肢にいれてくれる人)がかなり増える。
小説は
①そもそも文章という媒体を好む人が少ない。
②文章をたくさん読む人の中でも、小説を読む人は限られる。
③その限られた人の空いた時間を
④既に「面白い」という信頼を積み上げている他の書き手(プロや死んだ作家も含む)と争わなければならない。
かなりニッチなジャンルだ。
そしてこれから先、さらにニッチになっていくのではと予測は出来る。
いま、アラスカの中でも人がいない場所で生きる人たちの生活を追うドキュメンタリー「氷点下で生きるということ」のシーズン2を見ている。滅茶苦茶面白い。
気まぐれで横暴な自然に生活のすべてを合わせるしかなく、大変な世界だ。
人もほとんどいない、自然は過酷で、ひとつの判断ミスで重大な危機に陥るような生きていくだけで大変な場所だけど、出てくる人たちは皆「ここは素晴らしい場所だ」と言う。
「小説を読む」ことは「アラスカの中でも、わざわざ過酷な環境で生活する」ことと同じで、「今の時代になぜわざわざそんなことを?」と思うような特殊な癖なんだと思う。要は需要がかなり限定されている。
それが前提だと思うけれど、文章を読むのも書くのも好きな自分にとっては「ここは素晴らしい場所」だ。
(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)
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