いま、ちょっと話題になっているので、「考察とは何ぞや?」についての持論をまとめておきたい。(あくまでこのブログにおける持論)
創作における神は「創作内でのみ機能する独自の法則性」
「考察」とは、物事を明らかにするためによく考え調べることだが、創作における「考察」では「何を」明らかにするのか。
自分が考察するのは、創作における「神」を明らかにしたいからだ。
自分にとって創作における「神」は、作者(の考え)ではなくて、その創作を支配する独自の「ルール(法則性)」だ。*1
創作は一般的には、このルールに基づいて因果が編まれている。この「ルール」がなければ、因果自体が生まれない。そしてルールに基づいて編まれた因果によって、その先のルールが決定される。
というのが自分の考えだ。
「そのルールを考えているのも作者ではないか?」というと少し違う。
例えばクリスティの「そして誰もいなくなった」は、童謡に見立てた殺人が起こる。
ものすごくわかりやすく言えば、この「童謡」が「そして誰もいなくなった」における「神」だ。
もちろん、作者は途中で「見立て通りに殺人が行われない」という展開にすることもできる。
だがその場合は「殺人が行われた」ではなく、「見立て通りに殺人が行われなかった」という認識になる。作内の登場人物の認識もそうなるだろうし、読者の認識もそうなる。
例えば「そして誰もいなくなった」以外の作品でまったく同じ殺人のシーンがあっても、「そして誰もいなくなった」とは違い、「見立て通りか」「見立て通りではないか」という認識の仕方はしない。
「見立て通りか」「見立て通りではないか」という認識に支配されるのは、「そして誰もいなくなった」という創作に「童謡に見立てた殺人が起こるという法則」が機能しているからだ。
この「法則」を成り立つのは、それ以前に行われていた殺人が「全て見立て通りに行われていた」ことにより、「殺人は見立て通りに行われている」という因果(ストーリー)が編まれているためだ。
「三番目の殺人までは見立て通りに殺人が行われたのに、四番目の殺人は見立て通りではない」
という四番目の殺人が起こった箇所を、ストーリーのA地点とすると、A地点以後のストーリーを「A地点以前に起こった三件の見立て殺人」を無視して展開はできない。
「三件の殺人は見立てに見せかけて、実は見立てではなかった」
というストーリー展開がされても(クリスティの有名なあの作品とか)「三件の殺人が見立て殺人として起こったのではないか、という疑念から編まれたA地点以前のストーリー」を否定しなければならない、否定しないまでも「その考えを一切無視することはできない」という意味では、「見立て通りに殺人が起こる」ストーリーと方向性が逆なだけで、その因果からは逃れられていない。
書き手は因果を編めば編むほど、その万能性を失っていく。
「見立て殺人という神」を肯定するか否定するかの違いだけで、まったく無視してストーリーを構築するのは不可能、というより文字として書くことが出来たとしても、「そして誰もいなくなった」という作品ではなくなる。それ以前に、ストーリーではなく事象の羅列になってしまう。
「『見立て殺人と思われた三件の殺人が起こり、四件目の殺人が起こった』という前提を持つA地点」
読者はこの認識に基づいて、A地点以後に起こる事象を認識する。認識同士がつながらないものはストーリーとして認識しない。(というより認識できた場合は、その認識が法則性)
A地点以後には、「A地点以前」という法則性が必ず働く。
「A地点以前である神」は、「見立て殺人」以外にも様々な要素で編まれている。背景や設定やそこで登場した事実や、人物の関係性などもそうだ。
この全てから「A地点以前」で推測できる法則性が、「創作における神」だ。
話が「B地点」まで進めば、「A地点からB地点」+「A地点以前」である「B地点以前」が新しく生成された神である。
テキストを全て読み終わったら、そのテキスト全体を通して編まれた因果の法則性が神になる。
これにまつわる話で面白かったのは、「アクロイド殺し」における「神=ルール」を探った「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?」だ。
(*以下「アクロイド殺し」のネタバレ箇所反転)
「アクロイド殺し」で用いられる叙述トリックは、犯人が語り手のために「ルールを生成する物語内記述が信頼を担保できない」。そのために物語内で信頼できると保証されるルールを作ることが出来ない。事件を解決する探偵であるポアロもポアロが語る事件の真相も、「犯人の語り」の中にしか存在しないため、こういう問題が生まれてしまっている。
そのため「語り」とは関係のないルールが働いており、そのルールがアクロイドを殺したのではないか、という説だ。
「作者、テキスト(ルール)、読者」の関係を語ったものとして、ものすごく面白い本だった。
「考察」は、自分にとって「これまでの因果から生成されて、その後の因果を生み出す法則性を見つける物」なので、
①テキスト内に根拠がある解釈の連環によって成り立たなければならない(解釈は全てつながらなければならない→このつながりが法則性)
②テキスト内の記述と矛盾があってはならない。もしくは矛盾がある場合は、それもテキスト内に矛盾の根拠を見出せなければならない。
基本的にはこういう考え方でやっている。
この「因果によって生み出され、因果を生み出す法則性」は、テキストが続く限り、自律的に生成され続ける。
「私の記録簿に載ろうと載るまいとすべての人間はほかの人間のなかに宿るしその宿られた人間も他の人間のなかに宿るという具合に存在と証言の無限の複雑な連鎖ができてそれが世界の果てまで続くんだ」
「ブラッド・メリディアン」に出てくる「世界の全ての物事を写生する記録簿を作る判事」のセリフだけれど、これが自分の中で「創作の神」を表している言葉だ。
「判事」は、「創作*2の神」が具現化した存在なのだろうと思っている。
最近読んだ村上春樹「一人称単数」の「クリーム」は、この「ルール」に対抗しようとしている話なのかなと思ったけれど、やっぱりちょっと難しいのではと読んで思った。
考察したくなる作品について
そうは言ってもほとんどの作品は、ルールが明示されていたり、一般的(と思われる)コンセンサスに基づいていたり、自分の想像の範囲内で機能していたり(時折破綻していたり)*3するので「楽しませてくれてありがとうございます」という気持ちで感想を書いて終わり(たまに文句も書くけれど)というパターンが多い。
「考察」をしたくなるのは、
①世界観自体が法則性がわかりにくいもの。(「ウテナ」「ソウルシリーズ」「うみねこ」など)
②「この話はこういうことを描いているように見えるけれど、それだと自分の中で辻褄が合わない」
この二つのパターンがある。
考察する場合はその作品を、三回くらい連続で見る。(読む)
(1)一回目は何も考えずに見て、自分の中に引っかかりがある場合に、何が引っかかるのか考える。(ここで引っかからなければ、考察はしない)
(2)二回目に引っかかりを意識しながら見つつ考えを構築して、それが作内の描写と一致しているのかを確認しながら見る。(一致していない場合は、ここで考えを捨てて終わり)
(3)自分の考えをメモなどして整理整頓してから、引っかかりのポイントとなる箇所を前後の描写も含めて確認する。
(4)ある程度考察のたたき台を完成させる。
(5)このたたき台を基に、ストーリー全体を見て、矛盾がないか確認する。
映画はまだいいけれど、連続アニメや長い小説や漫画だとけっこう大変だけれど、不思議とその時は、考えること自体が楽しいので余り苦ではない。
ただこれだけ頑張って考えても、書いた直後に「全然違うのではないだろうか?」と思うことがある。そういう時はけっこうコロコロ考えが変わったりする。
奥泉光「滝」は色が重要なんじゃないか、と途中で気づいて全部調べ直した。
テキストを全部読み返して色の描写を三色で分けて、とけっこう大変だった。好きでやっているからいいんだけれど。
傑作なので、未読のかたは是非。
「結果(予告)から、運命という強力なルールが生成されてしまう」という逆転の発想で書かれた「予告された殺人の記録」も面白かった。
考察はあくまで作品内のみの描写で考える
どういう姿勢で創作を見ている(読んでいる)かは前に一回書いた。
ストーリーは、書かれた文字を読み手が認識して了解しつつ進んでいくもの
上の記事で書いた「リアルライン(造語)」もそうだが、読み手(受け取り手)の中に「読む前から存在する認識」もルールの中に組み込まれる。
例えば昔の外国が舞台の話の時に、「何で日本語を喋っているんだ?」(厳密に言えば、これも作内描写)と突っ込む人はいないが(たぶん)「その場所のその時代にその服装はあり得ない」と突っ込む人はいるだろう。
「日本語に見えても、これは登場人物は設定にあった語を使用している」というルールが機能しており、それを読み手が認識し了解して読んでいるためだ。
だが「これは時代に合っていない服装に見えるが、それは読み手向けに改変している」というルールが成り立つかどうかは、作品を読んだことによって生まれた読み手の認識が了解するかどうかで決まる。
これはかなり極端な例だけど、ストーリーは「テキストを読み手が読む→認識して了解する→次の展開のテキスト→今までの認識に基づいて読み手が認識して了解するか判断する→了解→次の展開のテキスト」この総体で成り立っている。
「『物語を読む』とは固定されたものとしてテキストを受け取ることではなく、読み手が独自の認識を刷新しながら了解を積み上げていくものでは」というのが、自分の考えだ。