「創作における神とは、その作品内のみで機能している『作品固有のルール』ではないか」という話を前の記事で書いた。
そのことをよく表しているのが、「ブラッド・メリディアン」の判事のセリフだという話も合わせて書いたのだけれど、そのことと関連して「解釈違いはなぜ『怖い』のか」という話を思いついた。
ある作品についての記事で、その内容とは違う解釈の人(たぶん)に「(ある特定の解釈が)影響力を持ってしまうことが怖い」と書かれたことがある。
直接言われたわけではないのでそれ自体は別に良く、ただ「解釈違いが『怖い』」という感覚が興味深かった。
「(テキスト内の根拠を引いて)その解釈は違う」でもなく「その解釈は嫌い(地雷)」*1でもなく、「その解釈が広まることが怖い」という感覚が最初不思議だった。
創作品の神とは何かがよく表れていると思った『ブラッド・メリディアン』の判事のセリフの前後のシーンが、「なぜ解釈違いは『怖い』のか」がよく表れているのでは、と思った。
ウェブスターがそういう書き物や絵をどうするのかと訊いたとき、判事は笑みを浮かべて、
「自分はいろんなものを、人類の記憶から消そうと思ってやっているんだ」
と言った。(略)
「でも俺の絵は描かないでくれ」
とウェブスターは言う。
「俺はあんたの記録簿には載りたくない」
「私の記録簿に載らなくても、誰かの記録簿に載る」
と判事は言った。(略)
「とにかく俺の面は描かないでくれ。知らない連中に見られたくないんだ」
判事はにやりと笑った。
「私の記録簿に載ろうと載るまいとすべての人間はほかの人間の中に宿るし、その宿られた人間もほかの人間のなかに宿るという具合に、存在と証明の無限の複雑な連鎖ができて、それが世界の果てまで続くんだ」
「俺は自分で自分の証人になるよ」
とウェブスターが言うと、ほかの男たちは
「この自惚れ野郎。そもそもてめえを描いた絵なんか誰が見たがるか」
(引用元:「ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤」 コーマック・マッカシー/黒原敏行訳 早川書房 P211-212 太字、括弧、読点は引用者)
「ブラッド・メリディアン」は、北米大陸の先住民を掃討するグラントン大尉の部隊を中心に話が進行する。
判事は肌身離さず持つ記録簿に、目につく事象を細かく記録していく。
「ブラッド・メリディアン」で語られていることは、「(歴史的な)真実や事実」は「それ自体として存在する」のではなく、ある種の機能ではないかということだ。
「真実や事実はそれ自体として存在するのではなく、『それは真実であり事実である』と大勢の人に機能したときに、『真実や事実になる』」
その究極の形が「一方向の認識以外の認識が存在しなければ、残った認識が事実として残る」
ウェブスターが死んだあと、ウェブスターが判事の記録簿の中にのみしか残らなければ、それが「ウェブスターという人間である」として後世に事実として定着してしまう。
記録簿の中のウェブスターは「判事が認識したウェブスター」であり「ウェブスター自体」ではない。
しかしその記録や記憶しか存在しなければ、「その認識=そのもの(事実)」としてウェブスターを実際に知らない人の中では機能してしまう。
この場面の中ではウェブスターという特に有名でも何でもない個人の話に限られているので、「この自惚れ野郎。そもそもてめえを描いた絵なんか誰が見たがるか」と仲間から混ぜ返されて終わる。
だがウェブスターは恐らく「真実や事実というものが、どういう風に決定されるか」ということを直観していて、「俺の面は描かないでくれ。知らない連中に見られたくないんだ」と言っている。
自分も世の中には「根拠のある事実もある」と思っているが、それがあったとしても「それを事実として認識できるか」と言うとそうとうあやふやだと思う。(その行為をしたかしないか、その文章自体が存在したか、などの視認できるものならばともかく)
「科学的根拠のあること」でも疑う人は大勢いるし(専門家の間でも意見が分かれることもある)、長い目で見れば「その時点では事実であることが虚偽だった」ことは歴史上でもたくさんある。
ある特定の枠組みの内部と外部で、「真実や事実が真反対」ということも多くある。
創作物の解釈はテキスト内の描写と矛盾がない限りは(もしくは矛盾はあっても妄想だ、と言い切っている限りは)自由だと自分は思っている。
なので「怖い」と言う人がいても書くスタンスを変えるつもりはないけれど、ただその根本にある、自分の物の見方や認識のパターンから導き出された「自分にはこう思える、こう見える世界」とは全く真逆の世界が、「大勢の人の中で事実、真実」として機能してしまうことが「怖い」というなら、その気持ち自体は分かる。
創作の解釈の話はここで終わりだけれど、現実でもそういう側面はある。
「SNSの問題はエコーチェンバーよりも、対立する意見の存在が自分のアイデンティティーの危機と感じてしまうところにあるのではないか」という話が面白かった。 - うさるの厨二病な読書日記
この記事の話も、「真実の椅子争い」の面が大きいのではと思う。
今の時代、この地点で生きている自分から見れば馬鹿げて見えることが、「なぜ、事実や真実として、多数の死人が出るほど強力に機能してしまったのか?」と思うこともたくさんある。
こういうのを読むと、「事実や真実は、相対的に決まるある種の機能という面がある」ということは覚えておかなきゃなあと思うのだ。
こういう「事実の仕組み」を利用して「事実そのものを塗り替えようとする人」もいるしね。
*1:自分もこれはある。まあnot for meで済ませているけれど