うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」第18回までの感想 すごく面白いが、一体どこがそんなに面白いのか。

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凄く久しぶりに「観終わったあと、一週間後の放送が楽しみな感覚」を味わっている。

大河ドラマ「青天を衝け」|NHKオンライン

 

日曜日の八時にはテレビの前に正座待機するくらい面白い。

一体何がそんなに面白いのか、考えてみた。

 

一番大きい要素は、主人公の栄一(篤太夫)の人物像に説得力がある上に、好感が持てるところだ。

「主人公に好感が持てる」のは、自分にとっては珍しい。

主人公はストーリーを動かしたり、物語の理念を体現したり役割が多いので、「ストーリーを動かす機能性」が強くなると、「主人公はそういう装置だから」くらいの目で見てしまうことが多い。

好き嫌いで語るものでもないだろう、くらいの感覚か、大抵嫌いよりの視線で見てしまう。

 

栄一というキャラに、何故こんなに現実的な説得力を感じるのか。

周りのキャラと栄一の関わりが、「栄一にとっての自分」ではなく、「自分にとっての栄一」になっているからだ。

喜作にとって栄一は、「自分の幼馴染で同志である栄一」だし、慶喜にとっては「円四郎が残した面白い男」だし、真田にとっては「志を共にした仲間だと思っていたのに、裏切者だった」なのだ。

 

「周りの視点の総体から、その人物像が出来ている」

言葉にすれば当たり前なのだが、この当たり前が出来ているストーリーは、自分が見る限りだとけっこう少ない。

 前に「主人公教」(造語)という現象について書いたことがあるけれど、「主人公(ストーリー)のためだけに生きている(?)キャラクター」、主要登場人物全てが「主人公のため(もしくは主人公に敵対するため)」という価値観や行動原理しか持たない話、というのはそんなに珍しくない。

この現象が起きる場合、主人公周りのキャラは主人公のことを常に最優先にして思考しているか、ひどいときは主人公との関わりしかアイデンティティを持たない。

ある程度は仕方がないにしても、主要登場人物の大多数がそうなると「周りの視点から出来ている主人公の人物像」が途端に現実味を失くす。

「一人の人物との関わりだけで、人格全てが出来上がっている非現実的な人間」の視点の集合体として出来ている人間なのだから、現実味はなくなる。

 

「青天を衝け」は例えば、主人公の父親はずっと農民として生きてきたので、「身分制度はおかしなところはあれど『従うべき法』だ」という考えが生き方に根付いている。

ではそこにしかアイデンティティを持たずに主人公である栄一と激しく(わかりやすく)対立するのかと言えば、そんなこともない。

何故なら「自分も昔は武士になりたかった」という過去や、「そうは言っても栄一は自分にとって可愛い息子である」という要素が複雑に絡まり合って、その結果として言動が出てくるからだ。

 

(様々な要素から出来ている)人格の結果として言動が出てくるのであって、その言動をさせるために人格が形作られるのではない。

 

言葉にすると固く聞こえるけれど、ストーリー上で動くキャラクターを見た場合、この差は一目瞭然だし、話の面白さにかなり影響する。*1

 

「青天を衝け」はこの辺りがかなり丁寧に作られていて、例えば慶喜にとって栄一は昨日の第18回までは「存在も良く覚えていない家臣の一人」くらいの扱いだ。

あそこまで円四郎と慶喜の絆が強固であれば、円四郎を回路にして慶喜と栄一を即座につなげてしまいそうなものだが、慶喜にとって栄一は、昨日やっと「円四郎が残した面白い奴」になった。

それまでは栄一が献策しても「聞くべき新しいことは何もない」くらいの対応だった。

栄一自身の言動の他に、こういう周りの変化でも栄一の成長が分かる。

 

また歴史ドラマだと、「先のことが分かっている現代の視点」や「現代の価値観」が入っていることが多く、この要素が強いと見ていて白ける。

「青天を衝け」は、主人公たちは今に至ってようやく「『攘夷』は難しいのではないか」と思うようになった。

少年時代に、水戸学に傾倒していた尾高惇忠から教わったことが染み付いているから、という人格形成が現れている。

今の時代から見れば列強との文明の進歩の差は歴然としていて、「攘夷」なぞ馬鹿馬鹿しいと思うが、地方で農民として育った栄一の視点がどういうものでどう広がっていくか、ということも現実味を以て描かれている。

昨夜放送された第18回では、栄一が兵員の募集を邪魔する代官について「どの場所でも代官というのは厄介だに」と述解した。

少年時代は土下座して必死に訴え、それを無視されて怒り狂う対象だった代官が、「厄介だに」と笑う程度の存在になった、というところに栄一の視点の広がりが表れている。

こういうのはその人物像を細部まで作りこんでおき、しかもその作りこみを大切にする姿勢がないと、難しいことだと思うのだ。

 

「青天を衝け」は、主人公の栄一だけではなく、周りの人物像がほぼこういう作りになっている。

「小四郎が反乱を起こしたのは自分が焚きつけたせいだ」という栄一に、喜作が「自惚れるな。お前が言わなくても水戸は立ち上がった」と怒っている。

栄一と同じように惇忠から水戸学を学んだ喜作にも、水戸に対して強い思い入れがある。こういうところがいい。

喜作は少年時代は栄一以上に能天気でいい奴で、最初は高良健吾のような見るからに美形な顔立ちとキャラクターが合わなくないか、と思ったが、まったくそんなことはなかった。美形なのにまったく美形に見えない。凄い。

俳優にとっては普通のことだと思うだが、「ちゃんとその人物に見える現象」は、見るたびに「凄い」と思ってしまう。

 

最近では、慶喜が円四郎に「自分は輝きがあるように見られてしまう」と言うシーンも印象的だった。

「そういう風に見られることも含めて自分自身だから仕方ないと諦めている部分もあるけれど、やっぱり何だか納得がいかないし、これからのことを考えるとこの悩みは大きくなっていくかもしれない、ということをいつもは一人で考えているのに、つい円四郎に話してしまった」という感じが良く出ていた。

それがそのまま円四郎と慶喜の絆を表している、というところも含めて、いいなあという言葉しか出てこない。

 

渋沢栄一の生涯を見ると、今の時点でまだ25歳だ。激動の人生だな。

 

*1:例外はあるけど