ブログを始めたのは、この世のどこかにいる自分みたいな人間に読んで欲しかったからだ。
自分みたいな人間というのは、秒速だったら秒速を、クリスティだったらクリスティを、ゲームだったらゲームのことがとにかく好きで好きで、自分がそれをどう読んだか(観たか)を話したい、他の人がどう思っているかを聞きたくて仕方がない。
そんな人間のことだ。
この人は作品を倍速で観たりしない。要約を読んで済ませたりもしない。
むしろ三回くらい連続で見たり読んだりする。
気になった箇所は何回も巻き戻して繰り返し見るし、好きなセリフは暗記する勢いで読む。
この登場人物はどういう人間なのか、なぜこんなことを言うのか、なぜあそこで沈黙したのか、こいつは本当はこんなことを考えているのではないか、この事象にはこんな意味があるんじゃないか、いやそれだと辻褄が合わないから、もう一度、一から観て(読んで)みよう。
そういうことを、ひどい時は一日中考えていたりする。
この人は自分が好きな対象に言及しているものを見ると、感嘆符付きで話す。
「面白い!」
「なるほど、そういう考えがあるのか!」
「全部間違っている! どこが違うのか今から全て説明しよう!」
だいたいその言葉の前には「あなたのことはまったく知らないし、これからも知らないが」がつく。
相手の人格を認識すると、思ったことそのままを書くのは難しいからだ。
ネットではただひたすら自分の興味があることだけを読むために徘徊していて、興味のあるものについて何か違うと思うと長文で何が違うと思うのか、なぜ違うと思うのか、根拠を全て出して、自分の思考の過程を読む人に分からせようとしつこく話をする。
たかが漫画、たかがドラマ、たかがゲーム、たかがお話、自分の好きな作品についてはそうは思えず、「たかが」ではないことを何万文字も費やして書こうとする。書き終わった後も納得がいかないと、思い出したようにまた何万文字も書き出す。
自分はこの世のどこかにそういう人がいるのではないかと思い、その人に読んでもらえるのではと思ってブログを書き始めた。
この世には確かにそういう人がいて、自分が想定した以上に読んでもらえた。
「面白かった!」「お前の物の見方はおかしい!」「そうだよね!」「そのキャラはそんな奴じゃない!」
そのうちのある人に言われた。
「学校のクラスメイトとして出会っても、こんな話はしなかっただろう」
「まあそうだよな」と思った。
同じコンテンツが好きな人でも微妙に興味の方向性が違うことがあり、少なくとも自分にとっては、「自分が好きな作品について、自分が本当に話したい方向性のことを感嘆符つきで話す」ことは現実ではかなり難しい。
ネットはやっぱりすごいな、ブログを始めて良かったと思った。
だが最近、自分の声が「感嘆符付きで話す人」に届きにくくなったように感じ始めた。
「そういう時代じゃないのかもしれない」と「今は倍速でコンテンツを消費する」という話題を見て思った。
コンテンツも多様化して飽和するほどあるし、時間は限られていてみんな忙しいのだろう。そう思っていた。
よく考えたら、この二、三年で急に皆が皆忙しくなるわけがないし、劇的に状況が変わったわけでもない。
第一「感嘆符付きで話す人」は、いつまで経っても「感嘆符付きで話す人」なのだ。忙がしいとしても、その合間に感嘆符をつけて話すのだ。
そして気付いた。
そうか、自分が感嘆符付きで話さなくなったのか。
感嘆符付きで話す人には、感嘆符付きで話さなければ届かない。
「どうですかねえ、これ」と書けば、「まあそうじゃないですか?」「はあ、なるほど」くらいの反応しか返ってこない。
いつの間にか自分が、誰かにとって「はあ、なるほど。そういう考えかたもあるんですね」と返す人間になっていた。
たまに目にする「何者」かになりたい、という言葉には余りピンとこない。自分はただ自分のままでいたい。
好きなことに関しては、常に感嘆符付きで喋って「お前とバスケをやるのは息苦しいよ」(©「SLAM DUNK」)か「真剣にやるとさ、揉めるんだよね」(©「青空エール」)のどちらかしかない人間でいたい。
他人にとっては「あなたのことはまったく知らないし、これからも知らないが」でいい。むしろ、そのほうが「社会的な属性に左右されない自分の言動のみからの他人の反応」を見れるので、そのほうが良かった。
自分は自分のことを知りたかった。
ネットで閉塞しているのか、はてなが閉塞しているのか、世界が閉塞しているのかは分からない。
自分は脳が混乱しやすいので、情報はむしろ制限している。
だからごく狭い自分の観測範囲のことしか分からないし、もしかしたらそれすら分かっていないかもしれない。
だが自分が、ぼんやりとほどけてきているのが分かる。
以前の自分は閉塞しすぎていて、その鬱屈で人を窒息させるか、同じような人間に苛立って暴発するような人間だった。
問題が多かったが、自分の中の「問題」がこのブログを書いている。
あなたたちは未来についてよく語っている。(略)
けれどもその言葉はいずれも虚しい。それを僕は感じる。
あなたたちは自分の言葉を信じていない。それ以上に祈ることをしていない。言葉を語りながら祈ることをしていない。
語られた事柄を自らの魂に刻みつけてみることをしない。自分自身の内側の宇宙に向かって、言葉を放ってみることをしない。
そもそもあなたたちは自分の魂を、内部にある宇宙を、真剣に覗きこんでみることをしない。
だからあなたたちは、いま語っている言葉を簡単に捨てるだろう。別に裏切ったとも思わずに。
(引用元:「ノヴァーリスの引用」奥泉光 (株)東京創元社 P122/太字は引用者)
好きで嫌いで何度も読んでしまう「ノヴァーリスの引用」は、特にこの石塚の主人公たちへの弾劾が読むたびに刺さる。
自分にとって、これは預言だからだ。辛い。
自分は自分の話すことを信じることが出来ないし、自分の言葉が「感嘆符付きで話す人」に届くと信じることが出来なくなっている。
自分がその時は真剣に話していたと思っていたことを、簡単に忘れてしまう。
結局そうなるのか、と思う。
ブログを書くのは、負担が大きい割に見返りは少ない、と感じることはある。
動画や画像や音声のコンテンツが山ほどあり、短文のSNSが全盛の時代に、まとまった文章を読む層に向けて書くのは効率が悪い、というのもあるし、それでいながら何がどこにどこで、いつ引っかかるか分からない、というハードルもある。
ただ色々な問題があるにしても、自分にとって一番大事なことは「感嘆符付きで話す人」に向けて書くことだ。自分はそのためにブログを始めたのだから。
最近ずっともやもやしていたことに、そう得心がいった。
noteに移ろうかと考えたこともあるけれど、やっぱりブログが使いやすい。慣れの問題かもしれないけれど。