うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

構造主義の精神分析家ラカンの思想を、年代ごとに追う入門書「ラカン入門」 感想とそこから考えたこと。

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ジャック・ラカンの思想を年代ごとに追う向井雅明「ラカン入門」を読み終わった。

 

この本を読む前にラカンについて知っていたこと。 

ラカンは構造主義の代表的な一人と言われる精神分析家で、当時廃れかけていたフロイトの理論を「フロイトに帰れ」を合言葉に見直し、独自の精神分析論を展開した。

「新しい世界 世界の賢人16人が語る未来」に登場していた、スロヴェニアの哲学者、精神分析家のスラヴォイ・ジジェクがラカンの娘婿で後継者であるJ・A・ミレールの弟子だと聞いて、ジジェクの著書を読む前に読んでみようと思い手に取った。

 

へどが出るほどポリティカル・コレクトネスを嫌い、右翼も左翼も痛烈に非難する哲学者であり、文化評論家でもあり、思想の発動機でもあるジジェク。

ジジェクの紹介文。これを読んだだけで面白そうな人だ。

 

「ラカン入門?」

「ラカン入門」は、元々は「ラカンの思想はラカンによってしか読解出来ない」という意味を込めて出版した「ラカン対ラカン」の増補版である。

この紹介を読んで嫌な予感はしたのだけれど、入門レベルの内容ではない。

詳しい人にとっては「ラカンの考えの基本を織り込んだ」(P412)なんだろうが、「入門」なのにややこしすぎて一読しただけでは何が何だかわからない。

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(引用元:「ラカン入門」 向井雅明 ㈱筑摩書房 P129)

こういう図を見ただけで「ウッ」となってしまう。

ユングのように「シンクロニシティ」「集合的無意識」「タイプ論」とかいう話だととっつきやすいのに、*1とつい思ってしまう。

 

この本を先に読んでいたので、「これはこういうことかな」くらいは理解できた。

「疾風怒濤精神分析入門」は著者が言う通り、「わかりやすさを重視」しているので最初に読むのはこちらのほうがおススメだ。

 

細かいところはいまいち整理しきれず理解できなかったが、一歩離れて遠目で見ると、ぼんやりと「こういうことかな」ということが掴める気がした。

その「こういうことかな?」と思ったことが、自分が「物語」について考えていることと似ているように思えたので、その話がしたい。

 

*理解しきれていない部分や間違いが多々あると思うので、正確な内容を知りたい人は本を読むことをお勧めします。 

 

人は皆、他者の認識の世界を生きている

ラカンの思想で自分が一番興味を持って、面白いと思ったのはここ。

ラカンはフロイトが用いた「エイディプス・コンプレックス」を基に、人間がどういう風に存在しているかを説明する。

 

人間は生まれたときに、最初の他者である「母親」に出会う。

「最初の他者・母親」が、赤子である自分の泣き声を「何らかの欲求を訴える意味のあるもの」として受け取る。

ただの音にしか過ぎない泣き声に、母親が「オムツを変えて欲しい」「お腹がすいた」という「欲求という意味」を付与する。その「欲求」に応えることで赤子が泣き止むと、「泣き声=お腹がすいたという欲求だった」と「母親の中で」固定される。

それは赤子自身の欲望ではなく、「母親という他者」の欲望だ。

この時点で赤子は「母親の欲望そのもの」になる。

赤子は母親に生殺与奪権を握られているため、「赤子を自分の欲望そのものとして見る母親の欲望」に応えようとする。(これが人間が根源的に抱える死の欲動。人間が破滅願望を持つのは、母親の欲望そのものとして母親と一体化したいと願うから)

だが、それでは赤子が母親に欲望として回収され消滅して(死んで)しまう。

この母子の一体化の欲望を禁じるのが「父」である。

父は子供に去勢の恐怖を与えることで、母親との一体化を防ぐ。

 

この「父」は生物学的な「父」ではなく、「法」である。

子供は母親によって、自らの意味のない泣き声=はっきりとしない欲動を「意味のある欲望」として解釈されたときから、言語によって物事が構成される世界「象徴界」で生きることになる。

「象徴界」は、他者の意思が言語「シニフィアン」として集積された世界だ。人間は母親という他者に、自分の意味のない泣き声を言語として認識された瞬間から、他者の意識の集積である象徴界で生きる。

「父」とは、象徴界にあるシニフィアン(他者の認識が言語化したもの)の集積のことである。

 

ラカンはここから「人間は皆、他者の認識の世界で生きる、他者によって生み出された虚構を生きる存在である」と考えた。

 

この象徴界に数多集積されたシニフィアンによって構成されるのが、「自我」である。ラカンの考えでは、自我は他者によって構成される。

そしてその「自我」という柵に取り囲まれることで生まれる空間が「主体」である。

「主体」は「決して認識できないもの」「常に欠けているもの」「空の壺の中身」なので、認識した瞬間、主体ではなくなる。

「人間にとって欠けたもの」が主体だ。

 

「象徴界という言語(他者)の世界」で生きる人間は、そもそも常に何かが欠けた存在である。

この欠けた何かを埋めようと思い、人は様々な物(嗜好品)などに手を出す。

これが対象αだが、なぜ本来の欲望を満たすのではなく代替物である対象αで我慢するのか。「本来の欲望そのもの」は「母親という他者の欲望」であり、それを叶えた瞬間に人は母に回収される=死ぬからだ。

 

 怪しい部分もあるけれど、だいたいこんな風に理解した。

「無意識」というと、一般的にはモヤモヤしたカオスを想像する。

対してラカンは「無意識は言語構造を持っている」と考えた。この無意識の言語構造から生まれる世界「象徴界」で人は生きており、それは実は現実とは違うのだ、という点はなるほどと思った。

ジジェクが言っていた「リアルとリアリティは違う」と言うのも、この辺りから来ていたのかと納得した。

 

「象徴界の父」の機能が現実よりもわかりやすいのが創作

この考えが、自分が「物語」について考えていることとすごく似ているなと思った。

www.saiusaruzzz.com

 

この記事で書いた通り、自分は「物語の神」は「その物語のみで機能する独自のルールではないか」と考えている。

このルールはその物語で描かれた様々な要素から帰納的に構成されていて、ストーリー内の登場人物はおろか、読者も作者ですらそんなものがあるとは(恐らく)考えていない。自分が主体的に思考し、動いていると考えているが、実はこのルールに沿って思考し動いている。

それがラカンが言う「象徴界の父」の機能に似ていると思ったのだ。

このルールから生成されるストーリーが、ラカンがいう「他者の認識によって生み出される自我」であり、その囲いによって「主体」という「空っぽの認識できないもの」「決して埋められないもの」が浮かびあがる。

 

自分はこの「主体=空っぽの決して認識できないもの」を浮かび上がらせることが出来ることが、物語のすごい点ではないかと思っている。

それはテーマではない。テーマも主体を囲い込む自我の一部なのだ。

 

そのルールは何が作るのか、というとジャンルやら登場人物の性格やら話の背景やら、ありとあらゆるものが要素として機能する。

ひぐらしのなく頃に」(ネタバレ反転)は、ルールXYZとして、それがはっきり明示されているところが面白かった。

 

自分はこの「象徴界の父=法」が強烈に機能していながら、その存在が物凄く遠くにあり分かりにくい話に強く惹かれる傾向がある。

 

「人間は他者の認識の世界を生きている」「他者が生成した虚構を生きている」と文字で読むと「???」となるが、実際に起こった事件でもこういうことを感じさせる事件は多い。

閉鎖された空間で、外から見るとにわかには信じがたいようなルールが機能してしまう事件、歴史上の出来事、もっと言うと日常の出来事でもそういうことはたくさんある。

そういう事象の中に実際に放り込まれた時、自分は今の自分が信じがたいと思う言動を取るのではないか。

そうすると「自分」とは何なんだろう? と思った時に、ラカンの考え方は詳細は難解すぎて分からなくても、言わんとしていることはピタっとくる感じがある。

後でもう少し、しっかり読み込んでみようと思う。

 

ラカンによるボロメオの結び目の取り扱いの特徴は、ボロメオの結び目を直接ひもで作ってそれを手でいじくり回し、その形態の変化を見ながら考えるという非常に操作的な思考方法がとられたということである。

その作業を行っている間、ラカンはほとんど言葉を発せず、セミナールの大部分が無言で進行することもあった。

 (引用元:「ラカン入門」 向井雅明 ㈱筑摩書房 P398)

このエピソード、さりげなく書いてあったけどすごいな。

みんなずっと無言で見ていたのかな? とか色々気になる。

 

*1:難解さや浅深の話ではなく、あくまで表面上の親しみやすさ