2021年7月8日(木)の読売新聞に、日本ペンクラブ会長に就任した桐野夏生のインタビュー記事が載っていたので、それを読んだ雑感。
「日本ペンクラブ」は名前くらいしか知らなかったので、ウィキを読んできた。
記事内では「言論と表現の自由の擁護を掲げて活動を続けてきた団体」と紹介されている。
記事を読んでのっけからびっくりしたのだが、
桐野夏生さんが日本ペンクラブの会長に就任した。(略)18代目にして初の女性会長となる。
2021年に18代目にして、初めて女性が会長になったのか。
いくら女性作家でも活躍している人がたくさんいても「長らく男性中心だった文学の世界」と書きたくもなるな。
「海外ではペンクラブの会長を女性が務めるケースも珍しくない」そうなので、日本も是非そうなって欲しい。
そんなに長い記事でもないのに、読んでいて驚く記述が多い。
中でも驚いたのが、1997年に「OUT」を発表したときのエピソードだ。
若い男性編集者に「『おばさんにも色々な人生があるんだな』と言われたんです。
女性は世の中の不合理や理不尽と闘ってきていたのですが、男性にとっては記号にしか見えていなかった。
多くの本に触れていると思われる編集者でさえ1997年の時点でこの認識なのか、と驚いた。
「若い」というのが何歳くらいかは分からない。ただ恐らく1970年代生まれで、現在40代半ばから後半くらいの世代ではないかと思うと、正直「うーん、この世代でもか」と思ってしまう。
もちろん同世代でもこんな男ばかりではない、もしかしたらこの編集者個人がこういう人だったのではと思うのだが、この書き方だと長い間「女性作家として女性のことをメインに書いてきた中での実感なのではないか」と感じる。
直木賞を受賞した「柔らかな頬」の反響も意外だった。
「風当たりは強かったですよ」と快活に笑った。(略)
そうした「洗礼」を受けたことへの怒りがあるから、また頑張れる。
さらりと書いてあるが、「怒りがある」ということは相当色々な批判が来たのだろうか。
「主人公が夫の友人と不倫している最中に娘が誘拐される」
確かにこの導入だけでも、物議を醸し出すだろうな。
自分も「柔らかな頬」は読んだとき、かなり「うん?」と思った。
今思うと、なんだかんだ言って「母になった女性は母性的であるべき」と無意識下では思っているかの踏み絵みたいな話だったのかもしれない。こういうところを容赦なく突いてくるのが、桐野夏生の好きなところだ。
読んだのがかなり前なので、もう一度読んでみようかな。
若い作家については
「すごくうまいし、みんな技術もあると思う」
反面
「でも、『これを書いてはいけない』とか、『倫理に反する』ということが、内面化している気がします」
これはマズイと思う。
価値観や正しさが相対的にしか成り立たないなら、文学の中でさえそれが描けないというのは危機的な状況だ。
「絶対的な正義」があると思っている人ならばともかく、正しさはその時代や社会や状況における相対的なものに過ぎないのに、相対化できなくなるのは恐ろしいことだ。
「真昼の暗黒」みたいな世界になる。
党は誤謬を犯さない。(略)
私もきみも誤謬を犯すことはある。
党は違う。党はだね、同志、きみや私や、その他何千もの人々以上のものなのだ。
党は歴史における革命理念を体現したものなのだ。歴史は躊躇しない。逡巡しない。
ゆっくりではあるが過つことなくゴールへ向かって進んでいく。(略)
歴史は己れの道を知っている。けっして誤謬を犯さない。
歴史に絶対的信頼を置けぬ者は、党の戦列にはいられないのだ。
(引用元:「真昼の暗黒」アーサー・ケストラー/中島賢二訳 岩波書店 P70/太字は引用者)
「正しい思想は決して間違いを犯さない」(相対化する必要がない)と思わなければ、「間違った思想は存在してはならない」とは思わない。
自分なんかむしろ「多くの場合、『悪』は正しい思想から生まれる」ぐらいに思っているので、本気で「『正しくない』考えは存在してはならない」と主張している人を見かけると震える。
現実でそういう言動を批判するならわかるが、「創作の中でも描いてはならない。何故なら存在してはならないものだから」というのは、恐ろしい考えだ。
桐野夏生には、これからも人間の弱さや卑しさや狡さなど「間違った」ところや普通の人の底に眠る「悪」を描いて欲しい。