この読売新聞の記事に、
「風当たりは強かったですよ」と快活に笑った。
「柔らかな頬」で直木賞を受賞したときの反響についてこう書かれていたので、久しぶりに読み直してみた。
読み直すのは十ン年ぶりで、大まかな筋と結末は覚えているけれど、細かな筋は全て忘れている状態。
前回のnoteの記事で「しばらくは余り解釈はしないで、感覚で創作を楽しもう」と書いたので、「柔らかな頬」でそれをしてみようと思った。
というのも「柔らかな頬」では、作内で起こった誘拐事件について元刑事の内海が、関係者に「感想」を聞いて回るからだ。
「感想」と言うよりは、思考を挟まない「印象」「直観」が近い。
なぜ内海が「意見」ではなく「感想」を聞くのかは最後まで明かされないが、「感想」はある時はその人物の物の見方をむき出しになったり、事件の本質をピタリと言い当てていたりするので、読んでいて「意見」よりもずっと面白い。
作内の登場人物に倣って、自分もこの本の「感想」を述べたい。
初読のときは「主人公の不倫中に幼い娘が誘拐される」という是非が分かれそうな筋立てと、結末が余りに斜め上だったので、「訳が分からず微妙」という感想を持った。
そんなあの頃の自分を張っ倒したくなるくらい、今回読んだら「凄い」と思った。
*以下ネタバレが含まれます。
「誘拐された娘」を探すのではなく、失われた自己を探す物語。
この話の本質に一番近いと思ったのは、恵庭署の刑事浅沼の「感想」だ。
「感想って言えば、ひとつだけあるね」(略)
「あの子は本当にいたのかって。有香という名前の子供は存在したのかって本気で疑ったことがあるんだよ。だって、消え方が変でないか?」(略)
「あれだけ捜索したんだから、出て来ない訳はない。(略)てことは、神隠しどころか、最初からそんな女の子はいなかったんではないかって気になったね。だけど勿論、写真にも写っているから間違いないけどさ」
(引用元:「柔らかな頬」桐野夏生 (株)文藝春秋 P253-254/太字は引用者)
「有香」は存在する。
物語の前半部分では登場しているし、主人公を初め多くの登場人物がその存在を実際に認めているからだ。
しかし「有香」を実際に視認していない浅沼にとっては、有香はその存在が疑われるほど希薄な存在なのだ。
そして物語外にいる自分の「感想」は、この浅沼の「感想」に最も近い。
自分の「感想」では、有香は主人公カスミの一部なのだ。
物語の時間軸で言えば「現在のカスミ」しか知らない夫の道弘や娘の梨沙、石山の家族にとっては「有香が含まれるカスミ」に違和感はない。
しかし本来のカスミは、「有香が失われているカスミ」なのだ。
「俺はね、こう思ったんだ。あなたのことを知っているようで知らなかったんだ、と。(略)
つまりさ、俺があなたに申し訳ないと思うのは、あなたを十分に理解していなかったという一点においてだけなんだよ。事件そのものは関係ないんだよ」
(引用元:「柔らかな頬」桐野夏生 (株)文藝春秋 P357/太字は引用者)
石山の事件への「感想」がこういうものであるのもそのためだ。
「柔らかな頬」は「誘拐された娘を探す話」なのではない。
「失われた娘を探し続けるのが本来の自己であるために、娘が必然的に喪われる話」なのだ。
そしてまたカスミ(自分)も、「誰かに『本来の自己』を認識させるための喪われた存在」であることを示す話でもある。
カスミが十八歳で家出したときは、カスミの母親にとってカスミが有香だった。
有香は和泉にとっても、脇田=内海にとっても「自己の姿を認識するために、殺す者」である。
和泉は「蔦江=ユカ=有香」を殺す。内海=脇田は出世のために有香を殺し、誘拐事件を演出する。
それにしても「自己探求をする」「一人でサバイバルをする」とは、これほどの痛みと対価を払わなければならないものなのか。
有香を探し続けたカスミの四年間は、暗く孤独な「迷走」と言っていいが、ただひたすら自己を見つめ続ける息苦しさと困難をここまで描けるものなのか、と思う。
「自己探求」というのはそれほど「カッコいい」ものでも「スッキリするもの」でも「高みに到達すること」でもない。
不倫して子供を棄ててもいいと思った瞬間に本当に子供が消えた、というどこにも行き場のない強烈な罪悪感とその罪悪を背負ってたった一人で暗い道を歩いた果てに、「自分は出世のために、子供を殺して誘拐事件を演出するような人間だった」ということを発見することかもしれない。
そういうとてつもなく恐ろしいことを語った話なのだ。
「そんな自分」でも見たいと思えるかどうか、ということを問いかけている。
と言う風に「言葉で解釈する」とやはり何か違う、この本が描いていることからズレてしまう感じがする。
ただ「不倫して子供を棄ててもいいと思った瞬間に本当に子供が消えた」ということに怒り=罪悪を覚える人であればあるほど、自己探求がいかに暗く孤独で困難なものであるかが体感できるところにこそ、この話の凄みがあると思うのだ。