*本記事には「鬼滅の刃」のネタバレが含まれす。注意してください。
「鬼滅の刃」の奥底に眠るものを、自分は理解できないと感じる
前に少し書いたけれど、「鬼滅の刃」という話の根底にあるものが、自分は頭ではわかっても感覚として理解できない、と思っている。
自分が「鬼滅の刃」の奥底に眠るものとして感じたものが三つある。
①鬼と人間は同じものであることは百も承知だが、それを認めてはいけないという強迫観念にも似た禁忌。
②「力」に対する嫌悪と不信
③「自分という存在だけで物事が完結しない」という希望
特に②は、強くなることに憧れを感じ、強いものにを見るとわくわくわくしがちな少年(青年)漫画とは真逆の発想だ。
「鬼滅の刃」はバトル漫画でありながら、「力」に対する根強い不信と「なぜそこまで」と思うような嫌悪感をはらんでいる。
とりあえず順番に考えていきたい。
「鬼と人間は同じだ」とわかっているからこそ、「鬼と人間は違う」と言い続ける。
「鬼滅の刃」では、「人間ならば生かしておいてもいいが、鬼は駄目です。承知できない」(六巻)という不死川の言葉に代表されるように、登場人物たちの意識の中で「鬼」と「人間」は明確に分けられている。
煉獄は八巻で「俺はいかなる理由があろうとも鬼にはならない」猗窩座の誘いに対してこう断言し、悲鳴嶼は黒死牟の言葉に「我らは人として生き、人として死ぬことを矜持としている」と答え、「鬼になればいい」と言う考えに「甚だしき侮辱。腸が煮えくり返る」(19巻)とまで言っている。
この辺りは他の漫画、例えば「自分もまた誰かにとっては巨人だった」と悟る「進撃の巨人」とはだいぶ違う。
「進撃の巨人」に限らず、一般的なストーリーでは敵である属性と人間との間にそこまで明確な線を引かない。もしくは「そうは言っても人間も残酷である」ことにある程度葛藤を見せる。
「単純な善悪二元論では語れない。人間もまた残酷であり、悪となりうる存在だ」ということは現実と照らし合わせてみても明らかだ。
そう考えると「鬼は人間とは違う絶対悪である」と登場人物たちがそこにチラリとした疑いすら挟まず考える「鬼滅の刃」は、一見、ひどく単純で素朴な「善悪二元論」の世界観に見える。
しかし違う。
何故かと言えば、「鬼滅の刃」ではほぼどのエピソードでも「鬼と変わらない人間の残酷さ」を描いているからだ。
上げようと思えばいくらでも出てくるが、自分が最もわかりやすかったのは不死川家のエピソードだ。
不死川家の父親はろくでなしで、母親や子供たちに暴力を振るっている。
一方で母親は自分の身を挺して、子供たちを夫の暴力から守り続けた。
母親は「鬼」になるが、鬼になってしまい我が子を食い殺した母親と自分の意思で長年我が子に暴力を振るい続けた父親を比較したときに、「鬼」である母親と「人間」である父親に違いはあるのだろうか。
むしろ自分の意思で妻子に暴力を振るい続けた父親のほうが鬼ではないか、と言いたくなる。
恋雪とその父親を殺した隣りの道場の人間たち、カナヲを虐待した親、琴葉を虐げ「自分は馬鹿だ」と思い込ませた夫と義母、息子である伊黒を蛇鬼に捧げた母親、「鬼滅の刃」では鬼顔負けの人間たちの残酷さが描かれ、その残酷さが人を鬼にする。
自分は最初、一般的にありがちな「鬼と人間は何が違うのか」という葛藤が登場人物たちの心の中にまったく生まれないことが不思議だった。
「鬼と人間は同じだ」と繰り返し描写しているにも関わらず、なぜ登場人物たちは「鬼と人間は違う」と思い込み続けるのだろう?
だがそんなことは、登場人物たちは本当は分かっている。分かっているから、それは疑問とはならない。答えは出ているからだ。
「人間と鬼がまったく同じ存在であることが分かっているからこそ」「鬼と人間は違うのだ」と強迫観念のように叫んでいる。
「わかっていて叫んでいる」のではない。
「同じだと分かっているからこそ、違うと叫ばざるえない」のだ。
「人間と鬼は何も変わりがない」
その答えを見ないために、「鬼と人間は本当に違うのか?」という疑問を誰一人持たない。そこに強烈な絶望を感じる。
読み返して「怖いな」と思ったのは、うたと子供を殺された縁壱のセリフだ。
(引用元:「鬼滅の刃」21巻 吾峠呼世晴 集英社)
ここの部分は「鬼」ではない。「他『人』」になっている。
「鬼の足跡を追ってきた剣士」の存在や、そのあと縁壱が「鬼がこの美しい世界に存在するために」と独白し鬼狩りになったために「うたと子供は鬼に殺された」と思ってしまうが、実はそうは確定していない。
むしろ縁壱が「他人」と言及しているところを見ると、殺したのは「人間」であり、縁壱はそれをわかっているのではないかと思わせる。もしくは「鬼」と「人間」に実は違いがない、という本来の認識が漏れ出てしまった場面のように見える。
それでいながら「鬼さえいなければこの世界は美しい」と繰り返し語るのは、「鬼さえいなければ人が死ぬことはない」という伊黒の思い込みと同じに見える。
「このままいけば歴史的には太平洋戦争が起こり、鬼は全て死ぬのではないか」という感想を見たが、これはその通りだと思う。
何故なら物語上は「鬼」として描かれているものは、物語の深層化では「人間(と変わらないもの)」だからだ。
「力」に対する嫌悪と不信
「鬼滅の刃」は他にも特異な点がある。
バトル漫画であるにも関わらず、「力」に対して強烈な不信感があるところだ。
「力」は、例えそれが「善良な人間が良い目的で使うもの」であっても、強烈な制限がかけられており、振るったあとは必ず罰や対価を求められる。
炭治郎や「柱」など、最強に近い力を持つ者はその力を振るった後は肉体を欠損するか、痣によって数年の命になる。
また「鬼殺隊」の総帥である耀哉は、剣を持つことが出来ないほど病弱で、おまけに病によって肉体を徐々に蝕まれていく。
力を持つ集団のトップが無力であることは珍しくないが、それだけでは足らず、その無力な体でさえ死に追いやられる。
また、無惨にさえ恐れられる作内最強だろう縁壱は、その力を利己的に振るわないようにするためか、個人的な欲望をほとんど持たない。
最強の力を持つ縁壱が望む唯一のことは、「私の夢は家族と静かに暮らすことだった。小さな家がいい。布団を並べて眠りたい」(21巻)であり、本人は「私は恐らく鬼舞辻無惨を倒すために、特別強く造られて生まれ来たのだと思う」(21巻)と自分という存在は自分の生まれ持った力に隷属する存在だ、と当たり前のように悟っている。
「鬼滅の刃」では、
①「力ある者は、その力を自らの欲望のために使ってはならない」と繰り返し戒められ、
②その上で「無力で無欲な者の統制下におかれ」
③その戒めと統制下で振るった力であっても、力ある者は罰を受けたり、対価を払うことになる。
「力」に対して、二重三重のプロテクトがかけられている。
必要があるから仕方なく使うが、用が終わればすぐに消滅して欲しいと言わんばかりだ。
「自分だけで物事が終わらないこと」が、希望である世界。
作内では「自分の命が終わっても自分の思いは残り続ける」という発想が、繰り返し語られる。
死んでも無駄ではない、思いは残り続ける。
という発想自体は、それほど珍しいものではない。
「鬼滅の刃」の作内のこの発想が他の創作で語られる類似の言葉と一線を画すのは、
「死んでも思いは残り続ける」が結果ではなく、前提であるところだ。
死んでしまった、でも思いは残り続ける、のではない。
思いは残り続けるから死んでもいい、なのだ。
この思想は、耀哉の最期によく表れている。
(引用元:「鬼滅の刃」16巻 吾峠呼世晴 集英社)
*こんなに怖いキャラにはなかなかお目にかからない、と思うほど耀哉は自分にとっては怖いキャラだ。耀哉がラスボスで鬼殺隊と戦う話を想像すると震える。……描いてくれないかな
耀哉の自爆に妻であるあまねはともかく、子供二人が殉じた描写には納得がいかないのだが、これは自分と「鬼滅の刃」の死生観が真逆のためだろう。「自分の人生は(現世の)自分のみで完結するわけではない」と考えれば、子供が自分の生を誰かに殉ずることで完結させる、という発想はそれほど不自然ではないのかもしれない。
「鬼滅の刃」の「思いの繋がりかた」と、それを前提としているがゆえの「現世で生きることへの執着のなさ」は、「今の自分のみで完結するからこそ『自分』なのだ」という発想で生きている自分には理解しがたく、それが希望として語られる様子が不思議……言葉を選ばずに言えば不気味ですらある。(この辺りは無惨の気持ちがよくわかる)
生きてきた中で希望だと思っていたものが絶望として描かれ、絶望だと思っていたものが希望として描かれている。
自分にとっては白黒が反転している異世界のような話だ。
「鬼滅の刃」は理解しがたい話だからこそ面白かった。
「鬼滅の刃」は自分にとって面白かったのは、語られることがほぼ自分とは真逆の発想である「?」だらけの話だったからだ。
共感や納得が出来ず、語られる希望や絶望の価値観が真逆でも、というより真逆だからこそ面白いと思う話がある。
そんな風に思わせてくれた「鬼滅の刃」は、やっぱり傑作だなあと読み返すたびに思うのだ。