「グイン・サーガ」5巻まで読み終わった。
イドの谷間を潜り抜け、セムの危機を救い、マルス伯を罠にかけ殺し、幻の民・ラゴンを探し求める旅に出る。
息もつかせぬ展開で面白かった。
「アクラは、アクラとは、神ではありません」(略)
「しかしまた、アクラは人でもありませぬ。アクラは、われらがアクラと呼びならしているものは『場所』なのです」
「『場所』?」
おどろきのあまり、グインは声を立てずにいられなかった。
「『場所』にすぎぬものが、人をみちびいたり、啓示を与えたりするというのか?」
「そうです」(略)
「すなわち、ラゴンの民を作りしもの、それこそアクラにほからなぬ、アクラはある夜、天より白き光として下りきたり、ノスフェラスに災いと死をもたらした。(略)
アクラのやって来るまえ、ラゴンとセムはひとしく、より大きくもなく小さくもなかった。しかるに、アクラ降臨のとき、ラゴンの祖とセムの祖とはいったん滅び、そののち再びかれらがあらわれたとき、それがラゴンであり、セムであった。
すなわり、ラゴンを作りしものこそアクラにして、ラゴンはアクラにつかえ、その命に従うべく、死の中からひろいあげられた」(略)
彼は、そのカーの話をどこまでがたわいもない伝説で、どこまでがシンボリックにほのめかされる、過去の奇怪な出来事の名残であるのかをはかりかねていた。
(引用元:「グイン・サーガ5 辺境の王者」栗本薫 早川書房/太字は引用者)
初読の時はジャンルを大きく横断する話が初めてだったので、次から次へ出てくる謎に魅せられるだけだった。
今読むと太字の箇所など、序盤からかなりはっきり「核兵器か、それに類するものの話をしていてSF要素がある話」とピンとくるように書かれている。
ヨナとナリスの初対面のときの会話もそうだけれど、「この立場の人だったら、こういう視点で、この事象はこう見えるはずだ」という見せ方がすごく巧い。
謎の提示のしかたも劇的だ。
ラゴンを仲間に引き入れるために、彼らの神(?)である「アクラの使者だ」とはったりをかまし、疑われて宗教問答に引き込まれ、当然「神かそれに近い人だろう」と想定して返答したら嘘つきよばわりされ、「一体、アクラとは何だろう?」と思ったら、和解したあとに「アクラは実は場所だ」と明かされる。
分かっていても登場人物と同じように話に引き込まれて、その興奮や感情の高ぶりを追体験してしまう。
「核戦争後の文明」という設定自体はよくある舞台設定だけれど、それをこうも謎に満ちて見せられるのは、凄い力だなあと思う。
イシュトヴァーンがアルゴンのエルを名乗ってマルス伯に取り入る罠も、普通だったら「そんなにうまくいくか?」と思うが、まったく不自然に感じない。
というより、冷静に考えればかなり不自然なんだけれど、イシュトヴァーンに息子の面影を見るマルスの心情に考える間もなくシームレスにのってしまう。
ある人物が主観を語り出すと、余り好きではなかったり、自分が理解しがたいキャラでさえ、同化してそのキャラの気持ちになってしまう。
栗本薫の登場人物の心情に入れ込ませる力はほんと凄い。
昔は「アムネリスは辺境編のころは恰好良かった。ナリスに惚れておかしくなった」と思っていたが、読み返すと辺境編のころからかなり残念なキャラだった。
出落ち感で言えば、アストリアス以上だ。
アムネリスとシルヴィアは中身は「生まれにそぐわず平凡な女性」と似ているように描かれているけれど、グインはアムネリスは好きじゃないとはっきり言っているのが面白い。
自分も「グイン・サーガ」の中で一番好きな女性キャラはシルヴィアだけど、アムネリスは余り好きじゃない。
「特別さ」と「普通」を使い分けている(ように見える)ところが嫌なんだろう。
アムネリスは美人だから、生まれがなくとも特別扱いされることに慣れている、と考えると「中身はシルヴィアと大して変わらないのに、第一印象で滅茶苦茶お高く見える」のも致し方ないのかなとも思う。
リンダやオクタヴィアのように、中身まで真の王族だったらまた違うのだろうけれど。
シルヴィアが「ケイロニアの王女という生まれがなければ、自分なんてただの平凡な小娘」とてらいもなく認められるところは一種の強み、と描いているところが凄いと、改めて感心してしまう。
初登場時が一番輝いていたと思うと、アムネリスはつくづく不遇なキャラだ。
続き。11巻までの感想。