*この記事は映画「ジョーカー」の結末までのネタバレが含まれています。
今さらだけど「ジョーカー」を見た。
凄くよかったので、未視聴の人は、感想を読む前に見て欲しい。
読みやすさを優先して断言調で書いているが、ただの個人的な感想だ。
「狂っているのは世界なのか、私なのか」という命題。
映画の始まりで、アーサーが福祉カウンセラーの前で自問する。
「狂っているのは僕なのか? それとも世間?」
これがこれから始まる「ジョーカー」という話の命題だ。
「狂っているのは世界なのか、私なのか」
というお題は、厨二である自分にとっては非常に重要なので、この時点で話に引き込まれた。
哲学などは基本的には、ずっとこの話をしていると言っていい。
人にとって究極のテーマである「世界と自分との関係性」について話します、と言っている。
「ジョーカー」はこの問いに、どんな回答を用意しているのか。
「ジョーカー」は寓話である。
「ジョーカー」は、ストーリーに被せられた表層をそのまま受け取って見ると、目が点になる。
「三十年間、無風で何事も起こらず生きてきたのに、なぜ、ここに来て立て続けにこんなに色々なことが起こるのか」
この一点だけ取っても、この話を「現実の社会をテーマにした話」と見ることに違和感がある。
ストーリー(世界)が作り物すぎて、リアリティがない。
世界が突然意思を持って、悪意でアーサーを追い詰めているとしか思えない。
表層のストーリーだけを見ると、「ご都合主義」……つまり「制作者の意図でそうなっているのだろう」と思ってしまう。
しかし違う。
「ジョーカー」のストーリー内で、「世界が突然意思を持ち、アーサーを追い詰めている」のだ。
「ジョーカー」は「世界が意思を持っている」という視点がないと、話が飲み込みづらい。
「世界が意思を持ってアーサーを追い込んでいる」
という認識が、この話ではとても重要だ。
何故なら話の最初で、「狂っているのは自分なのか、世界なのか」主人公のアーサーがこういう命題を立てているからだ。
「自分」と「世界」を対置させる物語だ、と明言している。
アーサーは「世間」という言葉を使っているのは、この時点でアーサーは「世間=世界」だと思っているからだ。
しかし「世間=世界」ではない。
「世間」は狂っていないが、「世界」は狂っている。
「ジョーカー」は、「世間=世界ではない」ことにアーサーが気付く物語なのだ。
もっと正確に言うと、「世間によって世界が狂わされている」。
「世間が正常であればあるほど世界は狂う」
どういうことか?
「世間」とは何なのか?
世間とは「他者の認識」である。
ラカンによると「人間は皆、他者の認識の世界で生きる、他者によって生み出された虚構を生きる存在である」らしいが、その是非はともかく、アーサーは少なくとも「他者の認識の世界」を生きている(生かされている)。
母親からの虐待を受けて、笑いたくもない時に笑う症状を与えられ、その辻褄合わせとして母親から「ハッピー」と呼ばれる。
ウェインから愉快犯の「ピエロ」と呼ばれ、同僚からは銃を押しつけられて職場から追い出される。
「母親から与えられた自己」=「ウェインの息子」は、ウェインによって否定される。
アーサーは笑いたくもない時に起こる、自分ではコントロール出来ない笑いの発作=「他者の認識」を強いられて生きている。
自己を外部(世間)から規定され、その規定を受け入れて生きているが、これはとても苦しいことだ。
「自己」というのは、他者の認識の相対としてしか成立しない(絶対的な自己は存在しない)とは思うものの、それでも自分が受け入れられない自己像しか与えられない、それを生きなければならないのはキツい。
アーサーは自分が受け入れるのが苦しい自己像を押し付けられ、自分が受け入れたい自己像はことごとく破壊されてしまう。
最終的に残ったのが、マレーから与えられた「ジョーカー」という自己(名前)だ。
追い詰められたアーサーは、マレーから与えられた自己「ジョーカー」に生まれ変わる。
「世界」とは何なのか?
ジョーカーはアーサーとは違い、自分が笑いたい時に笑いたいように笑う。控室で警官が襲われたニュースを見たときはフッと短く失笑し、マレーに冗談を振られたときは微笑みを浮かべる。
症状を彷彿させる甲高い笑いも、適切なタイミングで手を使わなくても治められる。
ジョーカーに生まれ変わってからのアーサーは、「笑い」を完璧にコントロールしている。
他者に無理に強いられている「笑い=自己」ではない。
アーサーとジョーカーは何もかもが違う。
何もしていないのに、人にからかわれ、人にからまれ、人を追いかけねばならず、人に追い立てられるアーサーとは違い、
ジョーカーは電車の中で人の面を奪っても殴られない。(面を取られた男が殴られる)
自分を追いかける警察官を人々が勝手に止めてくれる。
自分を追いかけたせいで群衆に殴られる警察官を、眺めて笑う。そんな余裕すらある。
1時間34分当たりの地下道を歩くシーンは、何度見ても痺れる。
アーサーだったら、どんなに小さく目立たないように歩いても捕まり咎められ追い立てられる。
しかし、ジョーカーは堂々と歩いていても捕まらない。
警官も周りの人も彼に気付いていないわけではない。
みんな振り返ってジョーカーを見ている。しかし、誰もジョーカーには触れられない。
人々は彼を仰ぎ畏れるだけで、捕まえるどころか触れることさえ出来ない。
ホアキン・フェニックスがアーサーを演じていたときには抑えつけていたオーラを全開にしている。惚れ惚れしてしまう。
アーサーとジョーカーでは生きている世界の法則が違う。
アーサーがジョーカーになった瞬間に、世界の法則が変わったのだ。
道を堂々と歩いていても、警官を笑っても、誰も彼を捕まえることは出来ない。
アーサーを追い立てていた世界が、ジョーカーを守っている。
「狂っているのは世界なのか、私なのか」
この答えが出ている。
世界も私も狂っていた。世間(他者の認識)によって狂わされていたのだ。
何故なら、世界とは私自身だからだ。
言葉にすると荒唐無稽に聞こえる。
しかし地下道を悠々と歩くジョーカーを見れば実感できる。
あれがアーサーが見つけた自己(世界)である。
ここまでであれば、「ジョーカー」は自分にとって「同意」くらいの話である。
「ジョーカー」が素晴らしいのは、ここからの展開だ。
「他者」のために自己を捨てようとする。
「ジョーカー」という理想的な自己を獲得したアーサーは、どうするのか。
アーサーは「ジョーカーという名」を与えてくれた、「父=マレー」に「子」として会いに行く。
アーサーの妄想のシーンでマレーがアーサーに「舞台、照明、観客、君が息子なら全部捨てる」と告げたように、ジョーカーにとってマレーは「象徴の父」である。
マレーは父を象徴しているが、「父=名を与える人」は「他者の認識の集合体である世間」である。
ジョーカーは、自分を狂わせて苦しめていた「世間」に会いに行くのだ。
マレーに真の名前である「ジョーカー」として紹介して欲しいと頼み、マレーが出て行ったあと、アーサーは天を仰いで銃口を自分の喉元に当てる。
この後、舞台で「硬貨な死」を目で追ったところを見ても、アーサーは罪を懺悔し死のうと思っていたのではないかと思う。
アーサーは無敵の自己「ジョーカー」になった。
世間はもはや彼に干渉することは出来ない。
警官も彼を捕まえられないし、群衆(世界)は彼の味方で彼を守ろうという意思で動いている。
誰を殺そうが、道のど真ん中を悠々と歩くことが出来る。
そんな無敵のジョーカーになってアーサーがしようとしたことは、自分を認めなかった世間に対する復讐ではなく、世間に自分の気持ちを話し和解を求めることだった。
世間の法則に従い、人殺しの罪を償うために死のうとしていたのだ。
もし「ジョーカー」の名前を与えた「マレー=父=他者」がアーサーを受け入れて、その存在を認めていたら、アーサーはそうしていただろう。
しかしマレーはアーサーに「ジョーカー」という名前を与えながら、それを否定した。
和解を拒まれたジョーカーは「父」を殺害する。
「父=他者」を殺すことで、「世間」の干渉を受けない、真の自己=ジョーカーになった。
真の自己となった後のジョーカーは、「ジョーカーのお面を被った人々=自己」が暴動を起こしている風景を見て心の底から笑う。
ジョーカーとなった人々によって救われ「立て」と言われる。
世界には「ジョーカー=自己」しかいない。
アーサーはジョーカーになることで、世界が自己そのものであることを発見するのだ。
「ジョーカー」では「自分が不幸ならば世間に復讐してもいい」ということとは、およそ真逆のことが描かれている。
「他者の干渉を受けない真の自己を発見したジョーカー」は「世界=群衆=自己」の求めに応じ立ち上がった後、何をするのか。
悪事の限りを尽くすのか、と思いきや捕まってアーサーに戻る。
笑いかた話し方を見てわかる通り、このアーサーは「ジョーカーになる前のアーサー」ではない。
「ジョーカーという自分を発見したアーサー」である。
そして「ジョーカー=アーサー」として世間の法則に従い、手錠をかけられ、監獄(病院?)に閉じ込められる。
自分に執拗に絡み、身体の危機まで及ぼそうとした証券マン三人、自分への虐待を容認し「笑い」を強制した母親、自分を退職に追い込み生きることが出来ないようにしようとしたランドル、面白半分に名前を与えて笑い者にしようとしたマレー。
ストーリーの中でアーサーが殺すのは、「自分を追い詰め狂わそうとする他者」のみだ。
自分に親切にしてくれたゲイリーは逃がしている。無差別殺人どころか、口封じや感情的な殺人すらしない。
「ジョーカー」という話の文脈で言えば「精神的正当防衛」近い。
しかも「寓話だから」とは言わず、最後には「世間」の法則に従ってアーサーに戻り、手錠をかけられている。
「ジョーカー」は「真の名前」を知る物語。
「ジョーカー」に近いと思うのは、「ハンター×ハンター」のキメラアント編だ。
「そうか、余は、この瞬間のために生まれて来たのだ」
「最後に名前を……呼んでくれないか?」
キメラアント編を読むと、「名前を見つけてそれを呼んでくれる人がいる」というのは人にとって最も幸せなことではないかと思う。
メルエムには、見つけた名前を呼んでくれるコムギがいた。
アーサーは「ジョーカー」という名前を、誰にも呼んでもらえなかった。
アーサーのような境遇にいれば、世間を恨んでしまう気持ちもわかる。
しかしアーサーは何度世間に裏切られても、そして自分もそれに対して反撃しても、その後何度でも世間(他者)と和解しようとし共に生きる道を模索している。
自分の名前を知る者として自分自身がいるから、世間に名前を呼んでもらう必要はない。
自分の名前は自分さえ知っていれば、他者の中で生きることが出来る。
自分が「ジョーカー」が凄い話だ、と思ったのはここだ。
最初に立てられた命題、
「狂っているのは僕なのか? それとも世間?」
の答えは、
「世間は狂っていない(ただし正しくはない)。そして自分もまた、その世間に狂わされない」
世間に左右されない、名前を持つ自己として他者の中で生きていける。
そういう話だと感じた。
アーサーは自己の内部にのみジョーカーを生かしたけれど、「世間に支配され狂わされ、名前を自分では保てないジョーカー」がバットマンの敵になるのだろう。
バットマンシリーズを見たことがないので分からないけれど、「ジョーカー」をみた限りではそういうことなのかなと思う。
そんな傑作「ジョーカー」だが、一点不満が。
ホアキン・フェニックスが恰好良すぎて、「アーサーが誰からも顧みられない」と言われても「嘘だろ」と思ってしまう。
雰囲気が「スタンド・バイ・ミー」のクリスにそっくりだ。
「哀愁」の目力が凄い。
アーサーとジョーカーで動きや雰囲気が全然違うが、だいぶ抑えているアーサーでさえオーラが駄々洩れに見えてしまう。
ジョーカーになったら、立ち姿だけで画面を制圧する人でなくては演じられないから難しいところだけど。
ジョーカーの圧倒的な存在感を見るだけでも、十分満足できる映画だった。