うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

2021年9月8日(水)読売新聞朝刊に掲載された「アフガン政権崩壊の教訓」の紹介と感想。

【スポンサーリンク】

 

2021年9月8日(水)読売新聞朝刊に掲載された慶応大学教授・田所昌幸さんの「アフガン政権崩壊の教訓」が興味深かったので、紹介がてら感想。

 

*以下は自分の視点が入っているので注意。詳しく知りたいかたは原文を読んで下さい。

 

主に二点に興味を持った。

①国家は人間が作った制度に過ぎず、住民が支持して初めて成立する。国家権力は強大だとおもわれがちだが意外に脆い。

②長い時間をかけて醸成された、その地に根付く価値観や制度を外から改変することは難しい。

 

 

①国家は人間が作った制度に過ぎず、住民が支持して初めて成立する。国家権力は強大だとおもわれがちだが意外に脆い。

 

自分が生きてきた時間の中でも、色々な国で政変が起こったが、「日本の現在の政治体制の枠組みが崩れるかもしれない」という危機感を実感したことはなかった。

何だかんだ言って「戦後憲法下の民主主義である現在の日本が続いていくのだろう」と思っていた。

でも最近、香港、ミャンマー、アフガン、と立て続けに政変が起こり、誇張抜きに一夜で政治体制がガラリと変わるという事態を見ていると他人事ではないのではないかと思うようになってきた。

 

ギニアでクーデターか 軍の一部 “大統領を拘束し権力掌握” | NHKニュース

 

詳細は分からないが、9月6日にはギニアでもクーデターが起こっている。

 

日本で軍事力を背景にした政変が起こると思っているわけではなく、もう少し抽象的な話として、「自分(たち)の支持というものが、国を形成する要素そのものなんだ」という実感がなかった、と感じたのだ。

 

「国」とは何なのか。

今の日本だと即「政府」とイコールで結びつけがちだが、アフガンやミャンマーの状況を見れば「権力を握り国を運営している団体=国ではない」ことは明白だ。

少なくとも国民の多くはミャンマーの軍事政権やタリバンを「国」とはみなしていない。

 

もし自分が、今のアフガンやミャンマーで生きていたら自分にとって「国」とは何なんだろう? 

「自分が『国』を構成するためにどういうスタンスを取るか」を絶えず考えなければ、「国」というのは簡単に霧散するものなのではないか。

ということを考えなくていいこと自体が恵まれているのだ、と他国の状況を見ると感じる。

 

政治思想とは余り関係がない。

もっと手前の問題で「自分が『国』を構成する一部なのだ」という実感についてだ。

 

「自分が『場に参加する』という意思を持たなくても、何となく続いていくんじゃないか」

「だから『参加している』という実感がなくとも、それほど危機感がない」

という今の自分の体感が、この記事で書かれている「国家がつぶれるはずがないと考える日本人」的発想なのかなと思った。

 

2021年8月22日NHKスペシャル「ミャンマー衝撃の映像」の感想 - うさるの厨二病な読書日記

 

先日この番組を見て、自分の国がもしこういう状況になったらどうすればいいのか、ということを考えたが、はっきりとした答えは浮かばなかった。

でももし実際に自分が生きる場所で起きたら、「複雑すぎてどうしていいのかわからない。少し考えたい」と言っている暇さえないんだよな、ということが身に染みた。

 

 

②長い時間をかけて醸成された、その地に根付く価値観や制度を外から改変することは難しい。

 

外から見ると自分が目に見える要素でジャッジしがちだが、実際はその事象がその時に突然起こったわけではなく、それが起こる土壌や経緯がある。

 

例えば香港で現在起こっていることも、外から見るほど単純な構図ではない、ということが現地を取材した本を読んでよく分かった。

 

当事者たちが語る「天安門事件とは何だったのか」 「八九六四 完全版 『天安門事件』から香港デモへ」感想 - うさるの厨二病な読書日記

 

昔、中東やアフリカは、なぜ権力が一極集中するような政治形態が生まれやすいのだろうと凄く不思議だったが、エマニュエル・トッドの「家族の形態がそのまま政治形態として反映しやすい。例えば長子相続の歴史がある日本では、共産主義は根付きにくい」という説を聞いて納得した覚えがある。

 

その国の価値観や風習は、長い年月をかけて積み上げられたものであり、その積み上げたものから社会システムは生まれる。

外からみて「これが正しいから」と言っても、それはその地の環境に適さない植物を移植するようなもので脆い。

 

「望ましいかどうかは別として、タリバンの方が、実効的な支配を行う能力が高かったことが明らかになった」

と記事では指摘されている。

外から見れば、武力を楯にした無法な組織のようにしか見えないが、それでもアメリカが支援していたアフガン政府よりは、その地に根差した「実行力」があった、という指摘は手厳しい。

あれほど早く政府軍が瓦解したのは、そういうことなのだろう。

(タリバンの善悪是非ではなく、政府軍と比較して、あくまで『その地に根差した実際的な力があったかどうか』という話)

 

タリバンもミャンマー軍政権も、その地に生きてる人が恐怖を感じ、反対の姿勢を示している。

その地に生きている人たちの支持によって構成されるものではなくては、ましてやその人たちを抑圧して、自由や権利を奪うような組織は「国」とは呼べない、と強く思う。

ただだからと言って、外の価値観で形成したものはそれがいくら「正しく」見えても、根付かないんだなとアフガンの状況を見て思った。

 

タリバン政権も、望ましいものになるとは考えにくいと見る。

それでも「そこで骨をうずめようという覚悟がない外部勢力が、政治体制をすげ変え、統治を安定させようとしてもうまくいかない」

 

「国」はあくまで「その地に生きる人たちの支持」によって成り立つものでなくてはならず、タリバンもミャンマーの軍事政権も現在のところ「国」とは認めがたい。

 

 

まとめ

先のことはわからないけれど、恐らく自分が生きているうちは自分が今生きている場所(国)の政治形態や社会の価値観や状況がガラリと変わるということはなく終わるのではないかと思っている。

 

ただ今の世の中の状況を見ると、自分の死後は分からない。

何かがあったときにすぐに瓦解して、社会システムが混乱して何も機能しなくなってしまう「国」ではないものを残すためにどうすればいいのか、ということはよく分からないけれど、こういう話を考えることも出来ることのひとつかな、と思う。