16巻「パロへの帰還」まで読了。一巻から始まったパローモンゴール戦争がひと段落。
モンゴールが弱すぎて相手になっていない。
11巻からの流れなら「ナリス・スカール連合に勝てるわけないよな」と思う。
逆にいくら奇襲とは言え、黒竜戦役でパロがなぜ負けたのかが不思議だ。魔導士なんてミアイルやタイランを暗殺出来るくらいチート能力をもっているのに。
まあでも、スカールのウィレン越えが無ければ、パロが負けていた可能性のほうが大きいのか。
正にマルス伯が言っていたように「戦は生き物」で、歴史的に見れば必然的な勝ちに見えても、当人たちにとっては常にのるかそるかの大勝負なのかもしれない。
アムブラの蜂起の場面が楽しかった。
栗本薫は学生運動の世代なのだろうけれど、学生中心の熱気の高ぶり方の描写が上手い。
人の心の興奮や情熱の高ぶりの描き方は、毎度のことながら神がかっている。
ナリスが好きじゃない自分でさえ、ナリスが聖騎士を率いて登場した場面は「ナリスさまあ」と言いたくなった。危ない。
ナリスとイシュトヴァーンってそんなに似ているか?
「野心を持っている。その野心のためなら何もかも捨てられる」という一点が似ていると言いたいのは分かるんだけれど、ナリスの話をイシュトがそんなに興味を持っている感じには見えなかった。(ナリスが言うほどには)
ナリスのように、人を寄せ付けておいて人を厳しく選別する癖に、自分が好きと思った相手が離れて行くと激昂するタイプには困ったものだ。(文字にすると凄いな)
ナリスがモデルらしい「ベルセルク」のグリフィスも自分から離れていこうとするガッツを力ずくで引き留めて殺してもいいやみたいに思っていたから、そういうところは似ていると思い至った。
アムネリスの上がり下がりが見ていてキツい。
ナリスが生きていると知ってからの心境が、完全に「もう男は信じない。腕に仕事命って彫ります」(©ハッピーマニア)だ。
悲劇のヒロイン気取り(としか言いようがない)からのこの展開は、作者が遊んでいるとしか思えない。「二度と男など愛さぬ」とか言いながら、この後、イシュトにあっさり惚れる。
それは苦笑いで済ませられるけれど、ナリスへの復讐心で判断を誤ったり、部下が統制できず市民に無法を働いていることに気付かない、「もう何も判断したくない」などこの人が上に立っていること自体が、周りの人間にとっても本人にとっても不幸になっている様は読んでいるとげんなりしてしまう。
クムでタリオ大公と渡り合う場面は、恰好良かったんだけどな。
アムネリスはいまや、このクムの首都ルーアンの水上宮、敵の首都のまんなかで、堂々とモンゴール大公国を代表してクムの大公とわたりあう次代の女大公であった。
いまや、ついえ去ったモンゴールであったが、アムネリスがいるかぎり、それは滅びていなかった。(略)
いや、彼女こそは、いまや、失われようとしているモンゴール大公国それ自体であり、彼女はモンゴールそのものとして、強大な傲慢なクムに敢然と立ち向かっていたのである。
(引用元:「グイン・サーガ16 パロへの帰還」栗本薫 早川書房)
初読のときは「ついにアムネが覚醒した。このあとモンゴールを奪還して、ナリスと渡り合うんだ」とテンションが上がった。
まさかこの時が最盛期だったとは。一瞬の輝きだったよ……。
本当に普通の女の子なんだな、と思うと気の毒ではあるが、シルヴィアと違っていちいち「そうじゃない」と期待させるからガックリくる。
それにしてもフロリーが可愛い。
ヴラドが死ぬ場面を見て、「そう言えばヴラドが好きだった」と思い出した。
正に「梟雄」と呼べる生きざまで、こんな序盤で脇役として死んでいくのはもったいないキャラだった。
「これは賭けだ。しかしおれは、もっとひどい賭け、もっときわどい勝負も、何回となくしてきたものだ。(略)
これでおれの命運もつきるのか、それともまだ、ヤヌスはおれを見捨てぬか、いつでもおれはそれを知るために何もかもを賭けた」
(引用元:「グイン・サーガ15 トーラスの戦い」栗本薫 早川書房/太字は引用者)
「自分の運命を知るために、常に何もかもを賭けて勝負をしてきた」
って格好よすぎるな。
本当にアムネリスの父親なのだろうか。
外伝でヴラドの話が読みたかった。
今回読み返して、トーラスの略奪の場面にちょっとウッとなった。
「物語的にいい者側」であるはずのスカールが部下にこういうことを許さざるえなかったり、ナリスが見て見ぬ振りをしたりするところが「グイン・サーガ」のシビアな点だ。
こういう展開の後だから、戦火に踏みにじられる庶民である「煙とパイプ亭」のゴダロの「神さま、ありがとうございます」で「パロ奪還戦」が終わるところにジーンと来る。
次巻からは大好きなケイロニア編だ。
何回も読んでいるから、ササッと読めそうだ。
続き。23巻まで。