*本記事には「ミッドサマー」のネタバレが含まれます。未視聴のかたはご注意下さい。
ずっと観たいと思っていた「ミッドサマー」を観た。
観る前は「2時間30分か。長いな」と思っていたが、観始めたら面白くて目が離せなくなった。
残り30分のところで「もう残りが30分しかないのか」と思ったが、こういう感覚は久し振りだ。
この映画で一番良かった点は、世界観や語りたいことが終始一貫しているところだ。
観ていて「この場所(ホルガ村)でこの事象が起こったら、こうはならないのでは」と思う箇所がほぼなかった。
ホルガ村という場所の思想(設定)が細部まで行きわたることで、ストーリーが成り立っている。
この話の主人公はホルガ村なのだ。
人間はホルガ村という生命体の一部である細胞に過ぎず、生命体の内部での役割・機能しかない。
細胞なので死も生(性)も管理されている。
「生命のサイクル」を終えた古いイルヴァは排除され、新しいイルヴァが生まれてくる。
「自己」を持ち、生命体のための役割や機能を放棄した者は、異分子として排除される。
「神聖なる頂点から罪深き底辺まで」の「十六の感情」を表したルビ・ラダーに、村の中の人間の感情は収納され管理されている。
感情は「一般的な認知による曇りがない」人間によって定められる。
自己として生きることによって身に着けられる個体の知識や感情は、ホルガ村にとっては邪魔でしかない。
村の人間は、ルビ・ラダーに管理されることで、「生命のサイクルの一部に過ぎない者」として存在する。だから言葉が通じなくても、ダンス(という動き)で意思を通じ合わせることが出来る。
「同じ動きをする塊」になることで個体の境界がさらに曖昧になり、思考や感情を共有することが出来るのだ。
「ミッドサマー」は「ショッキングな展開」をこういった理屈で裏付けしているのではなく、「生命のサイクル」(という考え方)から必然的に導き出される人々の言動が外から来た人間にはショッキングに見えるだけ、という構成になっている。
「輪の内外の世界観や認識の違いで恐怖を生む」のは古典的な手法だが、「ミッドサマー」は、ホルガ村という輪の内部の世界観の閉じ具合、その強固さ、そこに対するこだわりが面白さを生んでいる。
例えばクリスチャンがダニーに誕生日ケーキを差し出すシーンの背後で、赤子をあやすために揺れている(正に揺れている)女性たちは、全員で一個の生命体のようだ。
こういうこだわりがなければ、この話は「閉鎖空間でよくある出来事のショッキングさを恐怖として描くだけの話」で、この半分も面白くなかっただろう。(恐らく退屈だったと思う)
「生命のサイクル」の閉じ具合、完結性、そしてその永遠に続くことが出来る構造の完璧さが、創作だとわかっていても背筋が寒くなるような恐怖と心地よさを与える。
思考や個性、感情や自由という「主体」は、人間にとって時に重荷だ。
それがあるからダニーは家族の死にあれほど打ちのめされ、嘆き悲しむ。その苦しさを恋人であるクリスチャンとすら分かち合えない。
ホルガ村であれば、クリスチャンの性交を見た衝撃も、「個」として受け取るのではなく「全体」に回収してもらうことが出来る。
「自分」という個を生きなければならないのは、孤独と背中合わせなので、不安でその重みに時に耐えがたくなることがある。「個」ではなく「名もなき何かの一部」として決まりきったサイクルを歩むだけであれば、どれほど楽か。
このテーマは自分の中では、「エヴァンゲリオン」(テレビ版・旧劇場版)がやり切ったと思っている。
「エヴァンゲリオン」は(あくまで自分から見ると、以下全部そう)、「自分とは違う、訳が分からず恐ろしい他人とどういう風に一緒にいればいいのか」ということを延々と試行錯誤し続ける話だ。
それでもTV版のラストは、「他者の視点の集合体としての自分」が自分なのか、他者の視点によって規定されたのではない「自分」とは何なのか、という「他者に左右されない自分」を認識した。
旧劇場版では「傷つくくらいなら、自他の区別をなくしたい。それこそが人にとっての最適解ではないか」という問題提起に対して、「お互いに気持ち悪く傷つけあうだけだとしても、他人同士として生きていこう」と結論を出している。
TV版で「自分」を、旧劇場版で「他人」を認識して、やっと「自他を自分自身の視点で識別し、『訳が分からず気持ち悪い他人』と生きていこう」という結論が出た。
TV版のエヴァにはまったくピンとこなかった自分も、旧劇場版を観終わったあと「いい話だ。綺麗に終わったな」と思った。
【映画感想】「ヱヴァンゲリヲン新劇場版Q」を観た雑感+TV版、旧劇場版、「序・破」の個人的なまとめ。 - うさるの厨二病な読書日記
「(旧)エヴァンゲリオン」は、「自他の区別にこそ苦しみの根源があり、なくすことはいいことのように見える」→「それでも自他の区別がある(他人から見ると気持ち悪い)『自分』として生きいく」であるのに対し、
「ミッドサマー」では、「自他の区別があることはいいことだと特に根拠なく信じられているが、本当にそうか?」という疑問が提起されている。
映画の最後で、神殿と共にクリスチャンと村民二人が焼かれる。このシーンで人々は焼かれる人々の苦痛と同化し、痛みを叫び、その痛みを嘆く。
だがダニーだけは微笑みを浮かべ、「個」を保っている。*1
ホルガ村に来る前に、家族が焼け死んだ時は、ダニーはこの時の人々と同じように嘆き悲しみ、狂乱していた。
しかし今、恋人であるクリスチャンが自分の決断によって焼け死ぬときには、人々とは違い、一人だけ笑いを浮かべている。
ダニーの「個としての悪意」がクリスチャンを生きながら焼き殺したのだ。
人の感情がかくも恐ろしいものであるなら、本当にそれは「あることが正しいもの」なのか。
同じテーマでも物の見方の違いで、語り方や方向性が真逆になるところが面白かった。
唯一気になったのは、村から出ようとする人間を殺すほど閉鎖性が強い共同体が、ペレに留学を許すかなと思ったところだ。
イングマールもイギリスで生活していたようなので、思想の刷り込みに自信があるのかもしれないが、閉鎖集団は大抵「外部との接触を断つ」ことを最も重視する(だから外に出ようとしたサイモンとコニーを殺したのでは)ので、この点が不思議だった。
外から見ると極端な思想でも受け入れてしまうくらい、主体は脆いものだ(というより環境という型から生まれるだけのものに過ぎない)と自分は考えているのだが、それは裏を返せば、どんな強固な思想に支配されていても周りの環境が変わればその環境の影響を受けるということでもある。
外から新しい血を連れて来なければならないのは分かるけれど、一人だけで外に出して過去に何か問題が起きなかったのかな?ということが少し不自然に感じた。
気になった点はそれくらいで、個を失うことに安らぎすら感じてしまう完璧に閉じられた世界の美しさと恐ろしさを、十分に堪能できた。
*1:ここの自分の解釈は監督の意図とは真逆のようだ。創作を見るときは基本的には作品外のことは考えに入れず、その作品の内部からのみ自分が受け取ったことを感想として書いている。この辺りの考えについては何記事か書いているので、興味があれば読んでもらえると嬉しい。