*この記事には「天ー天和通りの快男児」のネタバレが含まれています。
久し振りに「天ー天和通りの快男児」を読み返している。
何度、読んでも面白い。
「天才は初太刀で殺す」とか読んだ瞬間に言いたくなる。
「天」で一番好きなキャラは僧我だ。
これから僧我のどこがそんなに好きかを、ひたすら語りたい。
自分の中で僧我は、「神さまを認めない男」だ。
「神さま」とは何かというと、「他人」「世の中」「運命」「天才」というもの全てを包括する「自分には手が届かず理解も出来ない、それでも従わざる得ない、この世のどこかにある絶対的な理」のことだ。
僧我にとっては、「神さま」が具現化した存在が赤木なのだ。
神さまに惚れこむ天やひろゆきや治、神さまを認めながらそれを利用したり食おうとする鷲巣や安岡、原田などどは違い、僧我は唯一、神さま・赤木の力を畏怖しながらも対等に戦おうとする。
僧我は「神さまを恨み認めない男」として出てくる。
あの男の出現で、わしが築いた十数年の実績がゴミみたいになってしまった。(略)
このままでは死ぬに死にきれん。
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」4巻 福本伸行/竹書房)
「神さまと戦う人間」は、必ずこういうルサンチマンを抱えている。
僧我はあらゆる意味で、赤木とは対照的だ。
圧倒的な天才性と強烈な存在感を持ち、見た瞬間に「他の人間とは違う」と多くの人に思わせる赤木に対して、僧我は同じように天才と言われていても、その才能や存在はわかりにくく地味だ。
僧我はもっと別種類の恐怖、薄気味悪さ。(略)
確かにあの闇の中に何かが在る。
あの闇の奥に何かが。
そういう闇自体が持つ、根源的恐怖。
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」5巻 福本伸行/竹書房)
僧我は「深い闇、漆黒の森」のような才能で十数年着実に勝ちを積み重ねて、その能力を周りに認めさせた。
だがその実績は、赤木という強烈な天才の前にあっという間にかき消されてしまう。
その理不尽さに憤りと恨みを抱え、僧我は神・赤木に挑む。
東西タッグ戦で僧我は、ひろゆきを気遣って普段の打ちまわしが出来ない赤木を、点棒残り5000まで追いつめる。
のう、赤木はん。
いい加減、目を覚ましなはれ。
他人の尻拭いなんてズレた真似をしていると死ぬで。
それが勝負の鉄則。
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」9巻 福本伸行/竹書房)
なるほど、面白いやないか。
そんなに死にたきゃ討ち取ってやる。
返り討ちにしたる!
背中はみせん。
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」9巻 福本伸行/竹書房)
しかしこの後、お荷物だとばかり思っていたひろゆきが覚醒(開き直り)する。
福本漫画では開き直った人間は強い。逆に迷って理屈に頼ったり安心安全を追うと、状況はアッという間に悪い方へ転がっていく。
この時の僧我も、ひろゆきの開き直りに気圧されて考えすぎてしまう。
結果、21000あった点棒がその後の二局で残り1000にされ、逆に追いつめられる。
次の局は自分が勝たなければ、直撃を受けなくともツモ上がりされればとぶ。
首の皮一枚で生きているような状況で、僧我は自分の和了牌を見逃し、あくまでツモを狙いに行く。
ひろゆきと赤木も残りの点棒1000にし、デスマッチに引きずり込むためだ。
何を考えているんだ?
何で和了を見逃す?(略)
メチャクチャだ。通ったとは言え、ドラ側の五筒は超危険牌。
それより何よりなんで見送る? 見送ってこの待ち(略)
ツモか?
ツモが狙いなのか? 僧我さん。
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」9巻 福本伸行/竹書房)
何かひとつでもボタンが掛け違えたら自分が即死ぬ、という状況に自らを追い込んで、僧我は戦う。
安易な出口を求めず、自分の命を天秤にかけて、ギリギリの場所で運命のサイコロを振り続ける。
もはや麻雀ではなく宗教問答だ。
福本漫画はこういうことが滅茶苦茶多いが。
そして僧我はついに、9割方自分が死ぬという状況と運命を、自らの意思の力でねじ伏せる。
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」9巻 福本伸行/竹書房)
僧我は、自分の人生を「ゴミみたいに」した運命に、神さまに、全知全能を傾けて挑み続けた。
しかし、その神さまとお別れのときがやってくる。
「ナイン」を久しぶりに読んだら泣いてしまった。
僧我の赤木への複雑で強い思いが、痛いほど伝わってくる。
これからする勝負で、もしわしが負けたら死のう。腹を切る。
その代わりもしわしが勝ったら、おどれが生きるんや。
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」17巻 福本伸行/竹書房)
神さまを生かすために、命がけで神さまに勝負を挑む。
しかし神さまはあろうことか、麻雀のことがよく分からなくなっている。
「オレにはもうそれが、よく分からんのよ」と赤木に言われた時の僧我の顔は、見ているのが辛い……。
僧我は神さまの力がよく分かっている。
自分も「天才」と呼ばれ、裏社会で一代を築くほどの才能を持っていたからこそ、赤木の能力がどれほど圧倒的なものであり、自分には理解しがたいものであるかを分かっている。
衝撃と恐怖で「怪物め」「化け物が」と言いながら、それでも戦う。
勝たなければ、その怪物が自分の目の前から永久に消えてしまうからだ。
どないなっとるんや、化物が!
しかし、そんなおどれとしのぎを削れたわしは……幸せやった。
巡り合えてラッキーやった。
もうお目にかかれんわ、おどれみたいな男には。
だからって、わけじゃないが、何も死ぬことはない。
少しくらいわからなくなったって、死ぬことはないじゃないか。
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」17巻 福本伸行/竹書房)
わしが倒すしかない。
わしが止めなきゃヤツは死ぬ!
このまま死んでしまう!
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」17巻 福本伸行/竹書房)
それでも赤木を止めることは出来なかった。
僧我にとって、赤木は最後まで理解しがたい圧倒的なものであり、「奇跡のような才能」だった。
綺麗やったな、さっきのは。(略)
まるで天の川のようやった。(略)
赤木の才能の話だ。
奇跡を見せてもろうたんや、ついさっき。
(引用元:「天ー天和通りの快男児ー」17巻 福本伸行/竹書房)
自分が必死に築いてきたものを「ゴミのように」扱った運命を、神さまを、僧我はずっと恨んでいた。
自分の持てる力、全てを振り絞って自分を認めない神さまに挑んだ。
そんなものはこの世には存在しない、ということを証明するために。
「神さまを認めない」という思いを持っていた僧我は、誰よりも神さまの存在を認めていた。その存在を感じとれ、その美しさを知っているからこそ、否定せざるえなかったのだ。
ひろゆきや治のようにその力にひれ伏せたら、逆に原田や鷲巣のように神だろうとその力を利用するだけと思えたほうが楽だったかもしれない。
でもその存在を認めていたからこそ憎んで、その力に圧倒されながらも挑み、最後まで神に対峙し戦い続けた僧我は幸せだった。
「しかし、そんなおどれとしのぎを削れたわしは……幸せやった」
赤木という神さまに出会え、そしてそれを「幸せやった」と最後に認められた僧我は、とても幸福な人だ、と読むたびに思うのだ。
「ヒカルの碁」の塔矢行洋と佐為は、僧我と赤木の関係に似ている。