以前、「自分にとってその対象(創作)がナシだ」と思う点がどこかは、よくよく考えないとピンポイントではわかりづらいのではないか、という記事を書いたことがある。
「有り無し」の感覚は非常に微妙なものなので、人にわかってもらうためには、まず自分の中でクリアにしたほうがいい。
逆に「同じコンテンツ、同じカプに萌えていても、その対象のどこに萌えているのか」は、人によってかなり違うのではないか。
というわけで、なぜ自分が何記事も書くほどおばみつに狂気的にハマっているのかを、突然話したくなったので話したい。
*解釈違いが気にならない人だけお読み下さい。
前置き。
伊黒は一方的に蜜璃に働きかける
自分のおばみつの最大のハマりポイントは、伊黒の自己完結性にある。
伊黒は「蜜璃が自分(伊黒)をどう思っているか」にはさほど、(個人的な解釈ではまったく)興味がないのではないか、と思っている。
「自分が蜜璃のことが好き」
伊黒の恋愛は、ここで完結している。
物語内描写を見ると、この二人の恋愛は最後の蜜璃から伊黒への告白を除いて、全て伊黒→蜜璃の一方的な働きかけで終始している。
蜜璃が伊黒に何かをしてあげている描写がない。
伊黒が蜜璃に靴下を贈り、炭治郎に嫉妬し、戦闘では常に蜜璃を助け、(ファンブックによれば)自分は飯を食わないのに、二、三時間もかかる蜜璃の食事に付き合っている。
この一方的な働きかけの末に伊黒が望むのは、蜜璃と一緒になりたい、などではない。
「今度は必ず君に好きだと伝える」だけだ。
「一方的な働きけの末に望むもの」も「相手に何かして(返して)欲しいという見返り」ではなく、「さらなる働きかけ」なのだ。
伊黒は「常に蜜璃に働きかけたい」だけであって、「相手から何かして欲しい」という欲が一切ない。
蜜璃の思いは、伊黒の考えにまったく影響を与えない
「見返りを求めない」というと美しく聞こえるが、よくよく考えるとこれは人間関係としてとても不自然だ。
蜜璃の立場に立つと、自分の働きかけが相手に作用せず、向こうからのみ自分に作用し続けようとする、というのは怖いことだと感じる。
「自分の働きかけが相手に作用しない」というのは、例えば蜜璃が伊黒に告白したとき、伊黒がまったく驚いていないことが上げられる。
自分が見た感じだと、伊黒は蜜璃の告白を当然のように受け入れている。
(引用元:「鬼滅の刃」23巻 吾峠呼世晴 集英社)
好きな人に好きと言われたのに、こっちが驚くくらい特に驚かず穏やかに受け入れるだけ。
伊黒の言動から考えると、(↑の反応などを見ても)伊黒は蜜璃が自分のことを好きなことを知っていたのではないかと思っている。
ところが「君の傍らにいることすら憚られる」というセリフに代表される伊黒の心情には、「伊黒のことを好き」という蜜璃の思いがまったく作用していない。
「蜜璃が自分(伊黒)のことが好き」という事実は、
・自分は死んで肉体を浄化しなければ、蜜璃の傍らにいることすら許されない存在である。
という伊黒の考えに一切影響を与えていないのだ。
「恋心」という蜜璃にとっては最も大事なことであろうことすら、伊黒の考えをまったく動かさない。
蜜璃の言動や心情に、伊黒の考えが一切影響されない、作用しない様子は、相手の言動に一喜一憂する恋愛からはかけ離れている。
おばみつは「伊黒の信仰の目覚めと殉教」の話
おばみつは表層的には、「鬼滅の刃」というストーリーの中のサブキャラ同士の恋愛エピソードだが、本質的には強烈な信仰への目覚めと殉教の話だと自分は考えている。
伊黒は蜜璃という神に出会い、信仰に目覚め、一心不乱に祈り続け、強固な意思を持って迷いなく殉教した。そういう話だ。
仮に「信仰の話だ」としても、かなり特異さがある。
遠藤周作の「沈黙」や「カラマーゾフの兄弟」のイワンやアリョーシャを見ても分かるが、普通は伊黒のように迷いなく信仰出来ない。どれほど信仰があろうとその過程で迷い悩む。
伊黒の信仰に対する迷いのなさは、他の信仰について描いた話と比べても異質だ。
なぜ、伊黒にはこんなに迷いのない信仰が可能なのか。
信仰の目的がアリョーシャが言うところの「世界の調和」ではなく、「自己の調和」だからではないか。
伊黒の目的は、「汚い血」や「深い業」を持つ「悪いもの」である自分を「いいもの」にすることにある。
(引用元:「鬼滅の刃」22巻 吾峠呼世晴 集英社)
蜜璃を信仰していると、伊黒がここでいう『いいもの』になれる感覚があるのだ。
伊黒が蜜璃に言った「あの日会った君が余りにも普通の女の子だったから、俺は救われたんだ」の「救い」は、「蜜璃といると伊黒の罪悪感が払しょくされる」ということだと思う。
普通、生身の人間が他者の罪悪感を引き受け続けることは出来ない。
誰かに一方的に祈られ続け、献身され続けるのは、対等な人間関係では不可能だ。「され続ける」ほうに罪悪感が生じ、逃げ出したくなる。
「飯を食わない相手に、自分だけが飯を食うためにニ、三時間付き合ってもらう」蜜璃には、これが出来る。
伊黒は二、三時間、蜜璃の飯を食う姿を自分が何も食べずにただ見続けることで、自分の中の罪悪感が払しょくされ勝手に救われているのだ。
蜜璃の飯に付き合うことが、伊黒にとっては「自己に調和と救いをもたらす祈り」なのだ。
蜜璃が飯を食う姿を見て勝手に救われている伊黒の自己完結性も凄いし、その伊黒の自己完結性を受け止められる蜜璃も凄い。
まとめ:伊黒が羨ましい
自分にとっておばみつは、罪悪感という苦しみの中で信仰に目覚めた伊黒が、祈りによって救われ殉教する話だ。
そういう対象を見つけることが出来て、その中で自己完結している伊黒を心底羨ましいと思っており、そこが自分がおばみつにハマった最大の理由だ。
自分も甘露寺さんのような人(やモノでもいいけれど)に啓示を受けて、脇目もふらず一心不乱に祈り続けたかった。
伊黒の22巻の信仰告白を読むたびにそう思うのだ。
伊黒はここで↓の記事で書いた「『どう絶望しようが一人で閉じ込められて流されておしまい』が希望」として補陀落渡海を行っている人間であり、流された先に蜜璃がいることに確信を持っていて、それが希望なんだろうと思う。(というよりそこにしか希望がないから、確信を持たざるえない)
「鬼滅の刃」はどのエピソードも、よくよく考えると読んでいるのが辛くなるくらいキツイ話が多いのだが、それがあたかも希望かのように描かれているところに凄みがある。
これだけ社会現象になったことも納得してしまう。