うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

知っているようで詳しく知らないので「ロシアの歴史」を通して学んでみた。

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そう言えば、ロシアの歴史はロマノフ朝→革命→ソ連成立→スターリンの独裁→ソヴィエト崩壊→ロシア成立くらいのざっくりした知識しかないな、と思い「ロシアの歴史」を通して学んでみようと思い二冊読んでみた。

 

名称通り、ざっくりした流れだけを知りたいならこれでも十分。

 

図による資料が豊富。割と多角的な解説なので、読んでいて楽しかった。

 

 

リューリク朝(9世紀半ば~1612年)

「ロシアの始まり」は9世紀半ばで意外と遅い。

それまで諸民族が争っていたロシアに、スカンジナビア半島からリューリクがやって来て、ノヴゴロドを中心に北ロシアを治めた。

その後、リューリクの子イーゴリが882年にキエフ公国を建国した。

これはいくばくかの事実に基づいた「建国の神話」(伝承)に過ぎない、らしいが、9世紀半ばの出来事も確たることがわからないほど資料が残っていないのか、と驚いた。

 

9世紀半ばに成立したキエフ大公国は、ウラジミール・モノマフ(在位1113‐25)の時代には隆盛するものの、それ以後は分解の方向へ向かう。

キエフの大公権が衰えて、ロシア内の他の公国の人間がリューリク朝を継ぐようになる。

 

1300年ごろになるとモンゴル帝国によって圧迫される。(タタールの軛)

東からはモンゴル、西からはドイツ騎士団領とスウェーデンの脅威にさらされていたロシアだが、ウラジミール大公だったアレクサンドル・ネフスキーは

西方からの敵には断固立ち向かい、これを粉砕した。(略)

他方、モンゴル軍に対しては従順で、戦わなかったばかりか、モンゴル税徴収のための戸口調査を(略)実現させ、モンゴルによる支配を助け、促進すらしたのである。

(引用元:「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社 P30)

 

「両方と戦うのは無理だが、宗教など内面的な問題に踏み込まず、税徴収だけで済ませるモンゴルのほうがマシ」という判断をして「タタールの軛」を受け入れた。

モンゴルは税の徴収とカラコルムへの伺候をすれば、大公権を取り上げることはしなかったようだ。遠方だから直接統治するのが難しいという判断なのだろうけれど、遊牧民族の性質とも何か関係があるのかな。

 

徴税は最初はカン国から派遣されたバスカクと呼ばれる役人が行っていたが、やがてロシア諸侯が集めてカン国に送るようになる。そのため、徴税を行う公国が力を持つようになる。

やがてロシアにおけるタタール税の徴収権を一手に握る公が出てくる。(略)

カンの後援を得たモスクワ大公である。
モスクワがやがてロシア統一の担い手となる背景には、タタール税の徴収権を独占し、自身の立場を強化することが出来たという事情があったのである。

(引用元:「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社 P33‐34)

 

「徴税権を握ることは権力を得ることだ」というこの辺りの流れは面白い。モスクワがロシアの中心地になった背景には、モンゴルの支配があった。

キプチャック・カン国による間接統治は、十五世紀前半まで続く。

 

このことによって、モスクワは力をつけ「大公国」となる。

1378年にヴォジャ河畔の戦いでモンゴルに勝利して、モンゴルが衰退の道を辿り始めたこともあり緩やかにモンゴル支配から脱していく。

完全にモンゴルの支配を脱したのは、1480年にキプチャック・カン国が差し向けた軍隊を追い返したことによってだ。(ウグラ河畔の対峙)

二百年ほどロシアはモンゴルの支配下にあったのか。長い。

これ以後、モスクワを中心としたロシア統一が進む。

 

1533年にイヴァン四世が三歳で即位する。

雷「帝」と呼ばれる通り、このあと1547年に「ツァーリ」として正式に即位する。これによってモスクワは大公国から帝国になった、という理解でいいのかな。

 

1548年にイヴァン四世が死に、その後を継いだ息子のフョードルも1598年に後継者がいないまま世を去る。
七百年あまり続いたリューリク朝が断絶する。

 

その後はフョードルの義兄のボリス・ゴドノフが実権を握りツァーリに選出されるが、ポーランドやスウェーデンが侵入したりなど混乱が続く。

動乱の末、モスクワを解放した指導者らは、十六歳のミハイル・ロマノフを選出しロマノフ朝が始まる。

「プラハの歴史」の時も思ったが、この時の「王(皇帝)権」は絶対王政の時とは違い、国土をまとめ守る代表くらいの意が強い。

「外国の王を含む多くの候補者たち」と、外国の王も候補になるところが面白い。

 

ロマノフ朝(1613年~1917年)

時代としては日本の江戸時代とほぼ同じだが、ロシアはポーランドとオスマン・トルコとの関係が常に関わってくる。内陸の国なので、内部の王権は比較的安定していても、外敵との戦いがひっきりなしに起こる。

皇帝権の強化により農民の一揆が頻発したり、正教会の分離によってもめ事が起こったりなどというところも江戸の初期を思わせる。

 

1682年にピョートル大帝が出てくるが、最初は兄のイヴァンと共同皇帝にされたらしい。そして異母姉のソフィヤに実権を握られていた。

この後女帝が四人出てくるが、この時のソフィヤによって「女性が権力を握る」素地が出来たようだ。

ソフィヤの画が載っているが、顔がいかつく腕組みをし、こちらを睨みつけている感じでドレスを着ていなければ男性と思ってしまいそうだ。

失脚して修道院に幽閉された後の画だからなのかもしれないが、なかなか頼もしそうな女性である。こういう「皇女」っぽくない皇女さまは好きだ。

 

近代化を目指して様々な改革を行って「大帝」と呼ばれたピョートル一世の後は、女帝の時代となる。

女帝が四人いた。男性皇帝も三人いたが(略)うち二人は幼少であり在位期間も短く、他の一人もわずか半年で廃位されている。

ピョートル大帝を除けば、十八世紀は実質的に女帝の時代と言える。

(引用元:「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社 P68)

 

ロマノフ朝と同時期の江戸時代では女の将軍はいなかった、中国でも女帝は史上一人しかいないことを考えると欧州露は女性の王・皇帝が多い。何故だろう?

エカチェリーナ二世は漫画にもなっているので、名前は知っていた。ドイツから嫁いできて、夫であるピョートル三世をクーデターで廃して皇帝に即位している。

それだけ読むと不思議な気がするが、ロシアに馴染もうと努力を重ね「夫以上にロシア皇帝として受け入れられる素地があった」(P73)と書かれているところを見ると、血筋は余り重要な要素ではなかったのだなと思う。

この時代に出てくるフランスの代表的啓蒙思想家ディドロは、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の中で、揶揄していたディドロかな。

 

エカチェリーナ二世の死後、息子のパーヴェルが後を継ぐ。

パーヴェルは母親を憎み、「帝位を男系男子に制限する継承法を発布した」(P79)ことによってロシアでは以後女帝が出現しなくなった。

なかなか業が深い話だ。

 

アレクサンドル一世の時代になると、フランス皇帝となったナポレオンが侵略してくる。「戦争と平和」の話が出てくるが、クトゥーゾフが迎え撃つ。

クトゥーゾフの画も載っているが、自分が「戦争と平和」から想像していたクトゥーゾフと全然違う。ひげもじゃの太った爺さんを(何故か)想像していた。

 

アレクサンドル一世の後は、弟のニコライ一世が継ぐ。

ニコライ一世が継ぐまでの空白期間に「ロシア最初の革命の試み」であるデカブリストの乱が起こる。

このためにニコライ一世は革命思想に脅威を抱き、弾圧を強めた、という理解でいいのか。

ドストエフスキーも捕まって死刑判決を受けている。この時代の空気は、「悪霊」にも如実に表れている。

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こんな暗くて不自由な時代に、トルストイ、ドストエフスキー、プーシキン、ツルゲーネフとロシアの有名な文豪がぞろぞろ出てきたのは何故だろう? 世の中が暗いほうが反動で創作意欲が掻き立てられるのだろうか。

 

1855年には南下を目指すロシアとオスマン・トルコの間でクリミア戦争が起こる。

敗戦によりロシアの南下政策は挫折し、国際的威信も大きく失墜した。

ロシアの後進性が万人の目の前に暴露されたのである。

(引用元:「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社 P91/太字は引用者)

 

この後進性の暴露が、国民に改革の必要性を知らせることになり革命の素地が出来たと考えると、つくづく歴史は連続体だなと思う。

 

ニコライ一世の後を継いだ息子のアレクサンドル二世は、改革のために1861年に農奴解放令を出す。

出すがこの内容、ひどくないか。これは自分でも怒る。解放令なのに解放されていない。

「これは自由ではない」

「我々は騙された」(略)

解放令は偽物で、本物は別にあると考えた者、村の官吏や司祭らが内容をねじまげて伝えていると信じる者もいた。

(引用元:「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社 P94)

改革は進んだが、それはあくまで皇帝による「上からの改革」だったため、社会には不満が溜まり専制政治を打倒する運動「ヴ・ナロード(人民のなかへ)」が生まれる。

ヴ・ナロードを体現するナロードニキ(人民主義者)は過激な運動も辞さず、皇帝アレクサンドル二世の暗殺も暗殺され、統治者側である皇帝と人民の不信と対立が高まっていく。

 

アレクサンドル二世が暗殺された後、息子のアレクサンドル三世が跡を継ぐが、父親を暗殺されているため、超保守的で反動的な統治を行う。

革命派を弾圧し、身分を明確にし、女性への教育を制限した。とはいえ、「アレクサンドル三世治世をまったくの『反動』の時代を見ることも正しくない」(P102)

ただこういった反動への反発が、革命への爆発的なエネルギーを産んだのかなとは思う。

マルクス主義が革命家たちの思想的な支柱となったり、日露戦争によって皇帝の権威に傷がついたこともある。1905年に起こった「血の日曜日事件」で皇帝への民衆の不信と反感が決定的になった。

その後、ロマノフ二世の治世のときに起こった第一次世界大戦が大きなきっかけとなり、1917年に二月革命、十月革命が起こり、ロマノフ朝は滅亡する。

ロシア革命と言えば「オルフェウスの窓」のイメージが強いな。

 

臨時政府からソヴィエトへ(1917年)

1898年に立ち上げられたロシア社会民主労働党は、レーニン中心のボリシェヴィキ(多数派)とマルトフら中心のメンシェヴィキ(少数派)に分裂した。

二月革命時に結成された「労働者・兵士ソヴィエト」はメンシェヴィキを中心に結成された。

 

憲法によって制定されていた国会、国会が選んだ新政府は、この時はソヴィエトを支配下に置いていたが、官僚や将校は国会を支持し、労働者・兵士・市民はソヴィエトを支持する二重権力状態だった。

四月にはレーニンが亡命先から戻って来て、臨時政府に不信任を突きつけ、ボリシェヴィキ中心のソヴィエトを樹立する。

 

この辺りはすごくややこしく、専制政治と戦いながら既に内部で権力闘争をしている。臨時政府とソヴィエトで争い、ソヴィエトの内部でもメンシェヴィキ、ボリシェヴィキ、エスエル党が緊張関係を保っていて、外側に強大な敵がいるうちはいいが、いなくなった途端に権力争いが起こる。

 

七月に軍最高司令官についたばかりのコルニーロフ将軍が、八月、配下の将軍に首都進軍を命じ、軍事独裁を企てたのである。(略)

ケレンスキーはソヴィエトに支援を求め、ソヴィエトもボリシェヴィキを中心に臨時政府支持を決定(略)

コルニーロフの叛乱は結果としてボリシェヴィキの影響力を強めることとなった。

(引用元:「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社 P119/太字は引用者

 

これが成功していたら、歴史はどうなっていただろう。

こういう要因から権力の構図が変わっていくのが歴史の面白さだ。

 

コルニーロフの叛乱で支持を拡大したボリシェヴィキは、1917年10月の第二回全ロシア・労兵ソヴィエト大会でソヴィエト権力の樹立を宣言し、単独政権を承認させる。(この二か月後にエスエル派を閣内に取り込む→しかしすぐに連立は崩れる)

 

ソヴィエト社会主義共和国連邦(1918年~1991年)

こうしてボリシェヴィキが権力を握る「ソ連」が成立したが、共産主義政権に対する外部からの圧力は強かった。

レーニンはこの戦時下を耐え抜くために、工業の国有化や国家による穀物独裁(食料割当徴発性)を行う。

「党が国家を指導し、党と国家が一体化することが理想とされた」(P126)

共産主義政権にしばしば出てくる、「党=国家」とする思想と国家の一元化、一党独裁の素地がこの時に出来る。

 

レーニンの率いるボリシェビキ政権は(略)世界が社会主義化しないかぎり、ロシアの革命は帝国主義諸国の干渉によって圧殺されると考えたのである。

(引用元:「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社 P126

 

「世界同時革命思想」だ。

連合赤軍事件の本は、この手の各派の細かい考え方の違いがしょっちゅう出てくる。

雨宮処凛が塩見孝也に怒られたときに、「こっちはちょっと世界同時革命とかじゃないんですよねえ」と言ったという話が面白かった。

これはこの時のレーニンの経験則として出てきたのか、元々マルクスが唱えているのかは分からないけれどどっちなんだろう?

 

1924年にレーニンが死に、スターリンが後を継ぐ。

スターリンの時代は、この本を読んでも上から下まで猜疑と不自由に満ちた暗い時代だ。

「人民の敵」の嫌疑をかけられた者はいうまでもなく、しばしばその同僚、友人、親族も同罪とされた。

密告が奨励され、相互監視体制が敷かれ、拘禁所では拷問が日常的に行われ、自白は「証拠の女王」となった。

(引用元:「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社 P141

 

文字で事象を読んでも「うーん」となるが、「真昼の暗黒」を読むと社会の空気感がどうしようもなく閉塞していて暗く重苦しかったことが伝わってくる。

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スターリンの標的になった人が自殺していることが多いのも気になる。捕まるよりはマシ、だったのだろうか。(おそろしや)

 

第二次世界大戦後も弾圧は無くならず、結局、1953年にスターリンが死ぬまでこの状態は変わらなかった。

 

スターリンが死んだ後は、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフと体制が続いていく。

91年にロシア共和国の大統領だったエリツィンが共産党を解体する大統領令を発布して、ゴルバチョフは党書記長を辞任する。これで事実上、ソヴィエト連邦が崩壊する。

「党が国家を指導し、党と国家が一体化することが理想とされた」(P126)

党と国家が一体化していたソヴィエトが、党(ソヴィエト)と国(ロシア)に分離することによって消滅している。

ロシア(国)がソヴィエト(党)を解体したのではなく、この二つが分離したときに「ソヴィエト連邦」という国は既に消滅していたと考えると、国とはつくづく不思議なものだなと思う。

 

この後、エリツィンがロシア連邦の大統領となり、メドベージェフ、プーチンと続き、現在に至る。

 

まとめ

だいたいの流れやところどころ事件や人名で聞き覚えがあるものもあったが、細かい部分は知らないことが多かった。

共産主義政権の「党=国」という考えは、馴染みがないせいもあるが不可解で恐ろしく感じる。権力の一元化はまだしも、思想の一元化は怖い。

革命期は仕方がないにせよ、スターリンの時代など比較的安定している時代も暗く陰鬱なのはそのせいではないか。

 

通史で見て行くと、時代が変わってもこの地域特有のもの、根付いている属性のようなものが感じとれて読んでいて面白かった。

 

 

関連図書

クトゥーゾフの描写は印象深かった。忍耐の人?

 

久しぶりに読みたいな。