うさるの厨二病な読書日記

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「鬼滅の刃」の何が凄いと思うかを、今から全力で語りたい。

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他の人が自分の好きな作品について語っているのをみると、自分も「自分はここが好きだ」とむしょうに語りたくなる。

 

というわけで、今から「自分は『鬼滅の刃』のどこがそんなに凄いと思っているのか」を、心を燃やして熱く語りたい。

 

どれだけ書くんだ、というくらい今まで書いてきたが、とりあえず今まで書いたことの中で「一番凄いと思っていること」をもう一度整理して書く。

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自分が「鬼滅の刃」ので一番凄いと思っているのは、話の根底に感じる「無力感」とそこから生まれる「力への嫌悪」「絶望」である。

 

「鬼滅の刃」で最も大事なことは作内では語られていない。

「一番大事なことを語らない、触れないこと」にこの話の凄みを感じる。

 

自分が「鬼滅の刃」を読んで一番不思議だったことは、「なぜ『鬼』が必要なのか?」ということだ。

倒すべき、そしてその後に改心する「敵=悪」として、なぜ「鬼」を登場させなければならないのか?

何故なら、物語内で既に倒すべき「悪=人」は存在しているからだ。

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(引用元:「鬼滅の刃」11巻 吾峠呼世晴 集英社)

 

人の悪性も描かれているのに、なぜ鬼と人をわざわざ分けなければならないのか?

梅を生きながら焼き殺した侍と、妓夫太郎の違いは何なのか?

鬼と人間の違いは(本当は)何なのか?

 

この問題は不死川家のエピソードが最もわかりやすい。

 

なぜ「母親」は鬼になったのだろう?

なぜそれが疑問かというと、不死川家には既に倒すべき「鬼(悪)」が存在するからだ。

家族に暴力を振るう「化け物のような」父親だ。

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(引用元:「鬼滅の刃」13巻 吾峠呼世晴 集英社)

 

なぜ、不死川が悪(鬼)として倒すのが「(人ではあるが)化け物のような父親」ではなく、「鬼になった母親」でなければいけなかったのか?

「人を悪」として描く話はいくらでもある。

例えば「進撃の巨人」は「鬼滅の刃」とは逆に、「自分とは違い悪(巨人)だと思っていたものは、自分と同じ人であり、自分もまた誰かにとって巨人(悪)だった」という話だ。(「進撃の巨人」も滅茶苦茶好きだ)

 

またストーリーとして絡ませるなら、「父親が鬼化する」でもいい。

暴力を振るっているとはいえ、実の父親を殺したとなれば、不死川が背負う業として十分だ。

 

そう考えると、不死川は本当は「母親が鬼になったから、母親を殺した」のではないのではないか。

不死川が母親を殺したから、『鬼』という概念が必要だった」のではないか。

 

「長年の夫からの暴力によって変貌した母親は、自分も子供に暴力を振るうようになり(もしくは無理心中などをしようとし)それを止めようとして不死川は母親を殺してしまった」

不死川家のエピソードは、本来はこういう話なのではないか。

 

また縁壱の妻・うたと子供を殺したのは、人間だったのではないか。

「鬼の足跡を追ってきた剣士」の存在や、そのあと縁壱が「鬼がこの美しい世界に存在するために」と独白し鬼狩りになったために「うたと子供は鬼に殺された」と思ってしまうが、実はそうは確定していない。

このシーンはミスリードではないか、と疑っている。

この後、縁壱が炭治郎に語ったセリフが

「自分が命より大切に思っているものでも他人は容易く踏みつけにできるのだ」

鬼ではなく「他『人』」になっているためだ。

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(引用元:「鬼滅の刃」21巻 吾峠呼世晴 集英社)


というより、物語内では「鬼と人間」と分かれているように見える属性が、実は物語内でも分かれていない、そのことを登場人物たちもわかっていることを表しているように見える。

 

登場人物たちは、「鬼と人間は違う」と必死に言い続ける。

これも読んだ当初は不思議だった。

「人間の中にも悪性がある」ということを描く話などいくらでもある。敵がそもそも「自分と同じ人間」という話も多い。

なぜ、この話は必死になって「鬼と人間は違う」と言い続けるのだろう。

やっていることは一緒で、中身は大して変わらないのに。

と思っていた。

 

だが違う。

鬼と人間は一緒なのに、違うと描いているのではない。

一緒だからこそ」違うと言わざるえないのだ。

 

鬼と人間が同じだと、決して認めてはならない。

「鬼」という概念を存在させることによって、かろうじて「人はそんなに悪いものではない。鬼とは違う。(鬼という)悪は倒すことができるのだ」という幻想を成り立たせているのだ。

 

鬼(悪)には抵抗することも倒すことも出来る。

それは幻想であり、幻想を成り立たせるために「鬼」が必要なのだ。

 

そこでもう一度、最初の疑問に戻るのだが、

(鬼がいなくとも成り立つ話なのに)なぜ『鬼』が必要なのか?

倒すべき、そしてその後に改心する「敵=悪」がなぜ人間ではなく、「鬼」でなければならないのか?

 

「鬼」が悪だから、鬼を倒すのではない。

倒せた「人=悪」のみを、「鬼」と呼称することでかろうじて語れるのだ。

その他の大勢を占める、「人という悪」に対しては人は無力であり、何もすることは出来ないのだ。

 

不死川は父親を倒すことはおろか、逆らうことも出来ない。

縁壱は、自分の妻子の仇を討てない。そもそも見つけることもできない。

幼いカナヲを、名前もつけずに虐待して売り飛ばした親が罰せられることはない。

琴葉を虐待した夫と姑は「鬼」が殺し、琴葉は「鬼」に救ってもらわなければならない。

 

伊黒は「鬼なんてものがこの世に存在しなければ、一体どれだけの人が死なずにすんだだろうか」と言っているが、最初はこれが矛盾に感じられた。

何故なら伊黒の親族は、鬼に脅されていたからではなく、自分たちが贅沢をするために大勢の人を殺し、伊黒を虐待していたからだ。鬼の存在は関係ない。

 

「鬼」が幻想を成り立たせるために存在するだけならば、この話は本当はどういう話なのだろう?

「鬼滅の刃」という物語が滅しようとしている「鬼」は、この「決して語ることが出来ない事実」なのではないか。

「鬼」という概念を外したものが、この話の真実の姿ではないか。

 

「鬼滅の刃」という話は「鬼」という存在がなくとも十分成り立つ。

話が成り立ってしまうことが絶望であり、表層的なストーリーはその絶望の上に成立している。

 

炭治郎の家族を殺したのは、誰だったのだろう?

冨岡が「俺があと半日、早く来ていれば、お前の家族は死んでなかったかもしれない」ということは、「鬼」なのだろうか?

だが「鬼」というものが、登場人物たちが「鬼と人間は違う」という認識を共有することで成り立たせている幻想だとしたら?

禰豆子が「鬼になった」とはどういうことなのか。

なぜ生き残った禰豆子は「鬼」になったのか。

 

「わかりやすい」どころか、この話は最も大事なことを決して黙して語らない。

注意深く、悟らせないように、その下に潜む救いのない事実を「鬼」という幻想によって隠している。

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(引用元:「鬼滅の刃」1巻 吾峠呼世晴 集英社)

*改めて読むと1巻の冨岡は格好いいな。しかも滅茶苦茶話しとる笑

 

その絶望から生まれた希望が「鬼滅の刃」では語られている。

それは「今の生には絶望しかなくとも、来世がある」という希望だ。

 

先日読んだ本の中で、「グノーシス主義者」たちは「グノーシス主義」を異端視する論者から、「さっさと自殺してこの世界から去ってしまえ、とっとと『故郷』に帰れ」と挑発されていたと書かれていたが、伊黒はまさにこの挑発を実践したのだ。

(【「鬼滅の刃」キャラ語り】伊黒小芭内というキャラの面白さを、188話を基にしてじっくり語りたい。)

 

「現世には絶望しかなく、肉体を脱ぎ捨てて高次の次元に行くことを目的とする」という発想は、伊黒においてわかりやすいが、「鬼滅の刃」は最終回がそうであったように、それが希望なのだ。

 

自分が「鬼滅の刃」が凄いと思い惹きつけられるのは、自分には理解しがたいこの「人の悪性に対して人は無力である」という絶望の深さに対してだ。

そうしてその深い絶望から生まれる、自分からはそれこそが絶望にしか見えないものが希望として語られるからだ。

 

これほど爆発的にヒットして後世に残るだろうことを良かったとも、必然だったのかもしれないとも思っているのだ。

 

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