相変わらず「グイン・サーガ」を読んでいる。
43巻でダリウス大公が最期にブチかます「開き直った悪党の下衆な恨み節」を読んで、「そうそう、こいつ、最期の最期で滅茶苦茶面白いキャラになったんだよなあ」と思い出した。
読んだことがない人のために説明すると、ダリウス大公は「獅子心帝」と呼ばれる偉大な兄アキレウス(主人公グインの主君)に対して、ずっとコンプレックスを持ち続けてきた。
帝位を奪おうとして陰謀を企むのだが、それをグインに阻止されたために逆恨みし、さらに陰謀が暴かれ国を追われた後も野心を捨てられず、皇女シルヴィアを誘拐して帝位を要求している。
絵に描いたような下衆な悪役である。
余りにやることなすこと卑劣で悪辣なために、義兄からも部下からも見放され総スカンを食う。
「救いようのない悪辣さや冷酷さ」は、否定的な気持ちがわくからこそ目を引くが、ダリウス大公は陰険で冷酷、絵に描いたような下劣な悪党にも関わらず、ほとんど興味がわかないキャラだった。
同じように残酷な悪党にアリストートスというキャラがいるが、このキャラは自分にとってかなり魅力的で、「グイン・サーガ」の中で五指に入るくらい好きだ。
「面白くない悪党」は、創作の中では最悪の部類だと思うが、ダリウスはそんなキャラだ。
それが死ぬ間際に無茶苦茶な逆恨みを二十数ページまくしたてることで、突然面白いキャラになる。
栗本薫はいいものであれ悪いものであれ、人間の激情の発露を描かせると天才的だが、ダリウスの逆恨みの爆発もこれだけで読み応えがある。
お前は確かに偉大な男だ。力もあり、味方にとってはもっとも頼もしく信頼できる男であり、そして素晴らしい戦士だろう。
そうであればあるほど、グイン、お前を手に入れることができぬ者、お前を敵にまわした者はお前をにくむ。
自分のためではない偉大さ、頼もしさ、自分とはかかわりのない信頼と愛、そしてお前のすぐれた能力や人望、そのすべてを抹殺せずにはおかぬまでに憎み呪うだろう。(略)
お前のために命をかけ、一生をかけようと剣を差し出す者が一人いるごとに、お前を苦しめ、お前に自分の存在をきざみこむために命をかけ、一生を費やそうとする者が一人いるだろう。(略)
ケイロニアの皇帝たることをなげうってでも、俺はお前と刺し違えることを選んだのだぞ。
(引用元:「グイン・サーガ43 エルザイムの戦い」栗本薫 早川書房/太字は引用者)
現実でもこういった「自分の存在の爪痕を残す」という発想はよく見るし対象にされた人はたまったものではないだろうが、創作ではこういう理不尽なルサンチマンの爆発も楽しく読める。
「真の悪人というものはな、下郎」(略)
「決して白状したり、改心したりはしないものなのだぞ。それだけはせぬことによってどのような悪党も最後の節義をまっとうするのだ。悪人としての節義、ドールの節義をな!」
(引用元:「グイン・サーガ43 エルザイムの戦い」栗本薫 早川書房/太字は引用者)
こういう捨て台詞を吐いて死んでいく。
ようやく面白い悪党として目覚めたと思ったら、死んでしまうのだ。気の毒に。
最期だから覚醒できただけかもしれないが。
こういう「負け≒弱さ」を認めるくらいなら「悪」でいたほうがマシ、という発想は悪役の華といえる。
「ベルセルク」のグリフィスは「無力なまま幸せになるよりも、強い悪でいたほうがいい。それまでの仲間を全て捧げてでも」という発想によって魅力的なダークヒーローになった。「FFT」のアルガスは「負け」を認められないからこそ、強烈なルサンチマンでこりかたまってしまった。
アルガスと同じように「自分が受けた傷を、他の人間に与える」という行為を繰り返していた「大奥」の千恵は、「自分が傷ついた(弱さ)」という事実を受けとめてくれる人が現れたことで、その傷から回復し「悪」であることをやめる。
「鬼滅の刃」の黒死牟も(内容は違うが)千恵パターンで、縁壱が巌勝を受け止めようとしていたのにああってしまったのは、男同士、しかも兄弟だとなかなか「一方的に弱さを受け止めてもらう」ということが難しいからかもしれない。
「無力であることは悪である」
というのも「男らしさ」を形成する規範のひとつだと思うが、そのレールにそって闇堕ちするパターンは枚挙の暇がない。
弱さに対する忌避感が、そのまま「堕ちる悪の巨大さ」になる。
グリフィスやアルガス、黒死牟が「辛かったら男らしさを降りていい」というのはなかなか難しいだろうと思う。彼らのこれまでの人生に密接に結びついているからだ。
「男らしさ」も、彼らが彼らであることの一部で、そこから出た言動は批判なり対処なりすればいいが、「その一部を捨てれば問題は解決するのに」という言葉には前から疑問があった。
人の内奥に余りに気軽に踏み込みすぎだと思うし、社会の規範を個人の選択で解決出来るかというとそんなこともない。
規範は社会の暗黙のルールであり、その規範の囲いがあることで社会は社会として機能しているので、その社会で生きている人は大なり小なり影響は受けていて自己の一部になっている。また自分がその規範を形成する一部でもある。だから抜け出るのが難しい。
あんただって、ケイロニア第六十四代皇帝アキレウス・ケイロニウスの弟に生まれるなどという「幸運」に見舞われてみるがいい。
兄貴より出来が良くなれるという幻想を抱いた狂人になるか、それとも兄のドールの陰画になってでも己を保とうとするか、どちらかしかないと気付くだろうさ。
(引用元:「グイン・サーガ43 エルザイムの戦い」栗本薫 早川書房/太字は引用者)
こういう恨みは大なり小なり誰もが持っているのか、よく目にする。
「そんなこだわりは捨てればいいのに」とその「幸運」に見舞われていない他人なのでつい思ってしまうが、それが出来たら苦労はしないのだろう。
やったことを見れば卑劣で下衆な悪党であることに変わりはないが、最後の最期に喋り倒した恨み節を見るとダリウスは自分がどういう人間かよくわかっている。
その点だけは気の毒だなと思った。
成仏してくれ。
巌勝兄上なんて、縁壱が深い愛情を持っているのに見えてないからな。(そこが好き)
何故かアルガスについて、突然考え出した記事。