うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、歴史ではなく歴史の中を生き抜いた渋沢栄作の一生を描いた素晴らしいドラマだった。

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終わってしまった~。

毎週、見るたびに元気をもらっていたので、終わってしまってとても寂しい。

 

幕末は創作の素材として人気が高いので、見ているほうも「歴史上は、次はこういうことが起こって、結果はこうなる」とわかっている。

その事象をどう描くかが見どころのひとつだ。

 

「青天を衝け」は歴史上のどんな大きな出来事も、「栄一にとってどういう意味を持つか」で統一して描いていた。

 

大政奉還はフランスにいたので詳しい状況はおろか何が起こったかすらわからない。

戊辰戦争は彰義隊の戦い、平九郎の死が最も大きな意味として描かれ、函館戦争は「自分のもうひとつの可能性」であった喜作の視点のみで描かれていた。

栄作と個人的な交流のあった、高松凌雲や土方歳三についてしか描かれず、榎本武揚ですらほとんど出てこなかった。

戦争自体がどういう規模で行われていたかはまったくわからず、土方が死に喜作が帰ってきていつの間にか終わっていた。

西南戦争にはまったく触れなかった。

これが栄一の実感だったのだろう。

 

函館戦争の時点で栄一は幕府の時代は終わったとわかっていて大きな関心は払っておらず、「もう一人の自分」として参加した喜作の視点だけで見ている。

列強の帝国主義の争いに参加しようとする日本を憂える気持ちと、自分の息子の不祥事に悩む気持ちはまったく同じくらいの大きさで存在していた。

 

歴史の出来事とその結果、その先の時代の道筋まで知っている現代に生きていると「後の時代にとって『意味があった出来事』がそのまま、その時代の人にとっても出来事のインパクトの大きさになっている」と思ってしまいがちだが、歴史の中で実際に生きている人たちの感覚は、「どれほど大きな出来事でも、個人的な意味の範疇で見ていた」のではないか。

見ているうちにそう思った。

 

「青天を衝け」は歴史ではなく、栄一視点で栄一の人生を追いかける物語だった。

農民の子として生まれて、田舎の秀才だった師である惇忠の思想の影響を深く受けて攘夷が正しいと信じてした。

世の中に身分があることを理不尽に感じ、その理不尽を正す方法として尊王攘夷をするしかないと思っていた。(他の方法を知らなかった)

だが江戸に出て様々なことを知り、攘夷など夢物語だったと悟り慶喜に仕える。

フランスに行き、日本の状況は何ひとつわからないから、抵抗もせず政権を返上した慶喜に憤る。

日本に帰って来て、新しい国とはいえ、まったく国としての態をなしていない日本を何とかしなくてはいけないと思い、新しい政府に仕える。

 

経緯だけを追うとドラマとして見てさえ、「機を見るのに敏な人だな」と思ってしまうし、実際はドラマとは違って(さすがに)打算も働いていたとは思う。

ただ「青天を衝け」では、子供の頃に抱いた「この国を救う」という強い思いが栄一の原点となり、一貫してストーリーの主柱になっていた。

「どうすれば、この国のためになるのか」ということは、その時々の栄一の視野によって違う。

だが「この国のため」という思いだけは変わらない、ということがずっと描かれていた。

 

自分が「青天を衝け」で好きだったところは、「その時々でこの国のためになる方法」の違いが「状況のせい」であることがほとんどなく、「栄一の視野の広さ」によるところだ。

栄一はその時々の自分の考えで、最大限「国のためになること」をやっている。

その時の視野の狭さによって、「横浜焼き討ち」のように、後の時代から見れば「馬鹿馬鹿しい」と思うようなことも真剣にやろうとする。

そこから「自分はこういうことは知らなかった」「こういう視点もあるのか」と悟る段階を経て、過去の自分の考えを否定したり、真逆の行動を取ったりする。

 

それがまったく不自然に見えないのは、子供のころから「栄一がどういう人間か」を描いているからだ。

元々が好奇心旺盛で人懐っこく考え方が柔軟、明るくておおらかで、若干無鉄砲でお調子者な面がある、そういう人間として描かれているから、「国を救う」という目的のために、色々な人と知り合ったり、その考えを取り入れたり、目的のためなら発想を変えることが不自然に見えない。

考え方が変わるときも、仲間である真田に裏切者と罵られたり、喜作や惇忠とも行き違ったり、平九郎の死を責められたりとその対価を払っているので、ご都合主義にも見えない。

 

天狗党や真田との確執は、自分が栄一の立場だったら、と思うと見ているのがキツかった。

自分が正しいとは思えなくなったことに殉ずるか、裏切者と罵られたまま仲間を見殺しにするか。

究極の二択だ。

こういうことを歴史的にではなく、栄一の視点で若いときの仲間との臓腑をえぐるような別れ方として描いているところがいい。

 

「天狗党に入党したルート」が長七郎の運命だ。

哀しい人生を送った長七郎は、序盤で最も好きな登場人物だった。

剣士として天才だった長七郎は皆から期待されており、栄一や喜作にとっては「敵わない憧れの幼馴染み」だった。

十代のころは、誰も栄一がこういった栄達を極めた一生を送って、長七郎が不遇のまま人生を終えるとは思わなかっただろう。

人の一生は、実際に生きてみないと分からない。

 

長七郎が故郷に戻って来てから言った「何の意味もない人生だった」というセリフは、滅茶苦茶刺さった。

栄一も「憧れの幼馴染み」だった長七郎の「自分の人生に何の意味があったんだろう」という言葉に衝撃を受けていることが伝わってきて、胸が痛かった。

栄一は、その後も「長七郎の人生の意味」を抱えて生きていく。

長七郎は「天狗党に参加した栄一」の写し絵だからだ。

栄一がその先を生きていることで、選ばなかった自分の人生=長七郎の人生にも意味を与えているところが良かった。

 

登場人物たちは、長い期間を経てお互いの出会いの意味に気付く、お互いの人生に意味を与え合う描写が多く常に感動的だが、特に前回の慶喜の死の間際に、栄一との出会いを思い出すシーンは良かった。

「渋沢栄一でございます!」

と聞いた瞬間に、涙が出そうになった。

一人で見ていたら、号泣していたと思う。

あそこでテーマソングが流れるのは狡い。

 

あのシーンは、自分の中では「慶喜が栄一の名前を知ったことによって、栄一が自分が何者かを知った瞬間」だ。

あの瞬間に、栄一は慶喜に自分の名前を伝えることで「渋沢栄一」になったのだ。

人は自分を誰かに認知してもらえることで、初めて自分になれて生きていくことが出来る。

そういうことが凝縮されたシーンで、人生の最期でその意味に感謝し合う姿は、思い出しても涙が止まらない。

自分が栄一だったら、この瞬間のためだけにでも生きてきた意味があったと思う名シーンだ。

 

そんな素晴らしいドラマだったが、一点だけ不満があるとすれば、年老いた栄一を吉沢亮が演じるのはさすがに無理があったかなと思えたところだ。孫もいる年齢にはどう見ても見えない。

若いころのエネルギーが有り余っている溌剌とした感じが余りにピッタリだったので、その反動かもしれない。

少年期から91歳まで演じるのだから、これはもうドラマと割り切って観るべきだとは思うけれど。壮年までは違和感がなかったし。

 

民部公子さま(37)にも驚いたが、あれはチョイ出演だしな。

中盤の一推しは民部公子さまだった。

渋沢視点で随行している気分だった。(危ない)

 

歴史の中で生きた渋沢栄一という人間の人生を、「一緒に生き抜いた」という感覚を与えてくれたドラマだった。

一年間、見続けて満足感でいっぱいだ。