「世界に復讐してやる」というルサンチマン文学が好きである。
具体的な被害を伴わない、漠然とした呪詛や憎悪、怨嗟は、現実で言動に表すのは咎められるべきだと思うが、創作では長く書き続けてこられたテーマだ。歴史に残る傑作もいくつもある。
そんなルサンチマンをテーマにした創作や創作内のキャラについての雑談をしたい。
「赤と黒」は粗筋だけ読んで、ダークヒーローによる血も凍るような復讐譚を想像していて凄い期待をもって読み出したらがっくりきた。
読んだのが大昔でそういう先入観で読んだので、もう一度読み返したらもしかしたら全然違う感想を抱くかもしれない。
「ダークヒーローによる血も凍るような復讐譚」と言えば、「嵐が丘」だ。
モームが「『ジェイン・エア』のロチェスター、『嵐が丘』のヒースクリフは、そもそものモデルは姉妹の父親なのだろうが、ロチェスターには理想の異性像が加わっているに対して、ヒースクリフにはエミリ自身の加虐性を込めたのではないか」(意訳)と書いていたことが印象に残っている。
ヒースクリフの自分の境遇の理不尽さに対する恨み骨髄ぶりは、エミリ自身のあの時代に持って生まれた才能を発揮しようがない田舎の女性として生まれてしまった、という怒りが込められているのかもしれない。作品も最初は男性名で発表していた、というし。
ヒースクリフは、恋愛メインの話のヒロインの相手役の割には、復讐相手(の縁戚)に対する加虐ぶりが凄い。
ヘアトンには直接的な暴力は効かないだろうと考えると、何ひとつ教えないで無知で粗野なまま育ててその内面との落差で苦しませよう、など発想に執念を感じる。
そうとう恨みが熟成していないと、なかなかこういう長期的な計画は立てられない。
自分が読んだ中で、ルサンチマン文学の最高峰のひとつは、世界全体に自分の中の反吐をぶちまけるようにして書かれたルイ=フェルディナン・セリーヌの「なしくずしの死」だ。
この人は反ユダヤ主義の思想に染まり、戦後亡命したらしいが、作品自体にはそういった思想は(自分が読んだ限りは)入っていない。
ひたすら世の中の理不尽さ、惨めさ、救いのなさが描かれている。
「なしくずしの死」でも主人公のフェルディナンの父親は、理不尽な立場に置かれているために、その理不尽の辛さ、原因を息子のフェルディナンに見出し憂さを晴らしている。そうしなければ生きていけない人たちの理不尽の連鎖とそれに対するやりきれなさが、延々と描かれている。
なぜ私がこんなに「卑語」を、俗語表現を使うか、なぜ自分でもそれを作り出すのかと言うと、それは、この言葉がすぐに死ぬからだ、と言うことは、この言葉が生きたからだ、私が使っている限り、この言葉は生きているからだ。
言葉も、万物の例に洩れずにいつかは死ぬ。これは致し方ないことだ。普通の小説の言葉死んでいる。文体も、何もかもが死んでいる。
私の言葉や文体もたぶん遠からず死ぬだろう。だがその時、私のはほかの凡百の言葉よりも幾分の利点を持つことになるだろう。
それはこの言葉が一年でも、一月でも、一日でも生きたということだ。
(引用元:「なしくずしの死」下 L-F・セリーヌ/高坂和彦訳 河出出版 P484/太字は引用者)
「死ぬ、ということは生きたということだ」という発想がいい。
「いつか死ぬとしても、ただでは死なない」というルサンチマン文学の真骨頂を感じる。
アガサ・クリスティが別名義で書いた普通小説「暗い抱擁」もルサンチマン文学の傑作だ。
強烈な階級コンプレックスを持つ男が、のし上がることでその恨みを晴らそうとするが……という話。
昔の英国の田舎の選挙戦の模様が丹念に描かれていて、風俗小説としても面白い。ルサンチマンに興味がない人でも、楽しく読めると思う。
主人公のゲイブリエルが、「オセロ」のイアーゴーに自己投影して自分の中の苦しみをぶちまけるシーンを最初読んだときは衝撃を受けた。
クリスティの他の小説を読むと、こういうルサンチマンを、しかも男キャラに投影する要素が余り見当たらない。
どうして突然ゲイブリエルのようなキャラが出てきたのか不思議に感じる。
近くにモデルになる人がいたのだろうか? その割にはすさまじい熱量なんだよな。
ゲイブリエルは「醜い小男」なのだが、凄くモテる設定なところも面白いなと思った。
男である語り手のヒューにはその魅力はまったくわからないのだが、物語随一の良識派のヒューの義姉テレサですら「ゲイブリエルと恋に落ちるのは楽しそう」と言うのだから、男が男を見る視点と女性が男を(異性愛目線で)見る視線はだいぶ違うのかもしれない。
いま読み返している「グイン・サーガ」のアリストートスも強烈なルサンチマンキャラだ。
小説内でも、「人というより、世の中に対する暗く黒い感情で出来上がっているもの」という扱いになっている。
「自分を自分として生み落としたこの世界に対して復讐してやる」というアリのモチベーションに、真性厨二のころ、がっつり感情移入していた。
その後、イシュトに心酔してしまったのでがっかりしたが、読み返してみるとイシュトに心酔する感情すら禍々しいアリも面白い。
その心酔について延々と語りまくるアリは輝いている。
アリのようなタイプが女性にモテたら、「銀英伝」のロイエンタールのようになるのだろうか、とふと考えたことがある。
アリにとってのイシュトがロイエンタールにとってのラインハルトだとしたら、アリがロイエンタールほど容姿が良かったら、イシュトの対応は変わったのだろうかなどと考えてしまう。
もしくはロイエンタールが容姿が余りよくなかったら(つまり女性への復讐心を満たせなかったら)、女性嫌悪だけではなく世界への憎悪に走らなかったのか、なども。
自分がアリが好きでロイエンタールに疑問がある(穏当な表現)のは、この辺りの差なのだと思う。
天野さんのアリは怖いなあ。
有名なところだと「金閣寺」がそうか。
これも昔読んだけれど、中身を忘れているので読み直したい。
「悪霊」のペトルーシャも、言動だけ見るとルサンチマン持ちだと思うが、内面がまったく言及されていない。
ドストエフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフといい「白痴」のガヴリーラといい、意外とルサンチマン持ちに冷たい。
内面が描かれないので、ただのムカつく奴になっている。
「貧しき人々」のマカールや「白痴」のムイシュキン公爵のように、周りから虐げられてもそのことを恨みに感じない人、「カラマーゾフの兄弟」のスネリギョフのように恨んでも諦めてしまう人にシンパシィを感じているように思える。
自分がドストエフスキーの長編の中で「悪霊」が一番好きなのは、そういう「弱さは愛されるべきもの」みたいな発想が(珍しく)ないからだと思う。
自分が好きだったり、思いつくのは今のところこれくらいだが、他にもたくさんありそうだ。
意外と女性作家がルサンチマン型男キャラを描いているパターンも多いところが面白いなと思う。
昔はがっつり感情移入していたことが多かったが、最近は少し離れた位置から作品として純粋に楽しむことが多くなった。(大人になったのか)
お話として読む分には面白いので、理不尽な世界に対する、これまた理不尽な怨嗟を描くルサンチマン文学がもっと増えて欲しい。