うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【書評】「中国共産党、その百年」 中国の考え方、成り立ち、仕組みが「党」の視点からよくわかる本。

【スポンサーリンク】

 

www.saiusaruzzz.com

 

「文化大革命 人民の歴史 1926‐1976」は膨大な資料から事実を浮かび上がらせている。

その浮かび上がった「文化大革命」という歴史的な事象を見て解釈する視点は、中国とは違う国のものであり、外側の目で見た中国の歴史だ。

 

外側の目から見ると、「文化大革命」を始め、天安門事件、大躍進政策、現在の中国の香港への対応などは暴挙にしか見えない。是非以前に「なぜ、そんな対応や考え方をするのか」という疑問が浮かぶ。

本書では「中国共産党」の成り立ち、考え方、仕組みなどのメカニズムが、歴史的変遷に沿ってわかりやすく解説されている。

 

外側から見ると不可解な、「中国共産党という回路」はどういうものか。

現代中国の国家運営の基になっている、「中国共産党」というメカがどういう仕組みになっているかがわかりやすく、読んでいて面白いのでおススメだ。

 

 

「中国共産党」という思想システム

中国共産党を確立した毛沢東は、元々はソ連のスターリンのやり方を手本にした。

「中国共産党」の成立期の考え方は、ロシア革命を起こしたボリシェヴィズム→スターリニズム(マルクス・レーニン主義)→スターリンの影響を受け、後にそこから脱却した毛沢東主義と変遷している。

共産主義に個人崇拝を組み込んだところにスターリンの独自性があり、毛沢東もそれを踏襲した。

 

平等を謡う共産主義と個人崇拝は一見相反するようで、なぜこれほど上手く組み合わさるのかが以前から不思議だった。

この本を読むとその疑問が解ける。

 

マルクスの思想は詳しくは知らないが、マルクス主義を基盤としている左翼の考え方を見ると、「思想と実践が一体化している」ことはわかる。

「自己の内部の変革によって世界を変革しうる」という、「認識主体の優位性」を極限まで突き詰めた思想であり、連合赤軍も総括という方法を用いて自己の変革を試みた。

言葉にすると荒唐無稽だが、実際に連合赤軍や文化大革命時の中国はそういう考えを用いて社会を動かそうとした。

 

モスクワ裁判を描いた「真昼の暗黒」でも、読む前は「やっていないことを自白する」ことが不思議だった。

だが、「党は矛盾しないという認識(結論)が先にあり、この現実よりも高次の次元に存在する認識に現実を添わせるために自己を変革する」と考えると、矛盾を解消するためには自白するしかなくなる。何しろ「党は間違えない」のだから。

 

外側から見るととことん馬鹿馬鹿しく見えるが、内部にいてこの思考が内面化しているとき、「自分」もまたこの思考システムの一部になってしまう。

だから内部にいる人間は、このシステム自体を相対化して考えることが出来ない。(批判したり否定することができない)

外側の社会でも個人の内面でも一貫して動いているので、矛盾だらけの存在である個人はそのシステムから逃れることが出来ない。

スターリン支配下のソ連でも毛沢東支配下の中国でも、自殺者が多々出たのはそのためではないかと思う。

自己がその思想システムの一部になり内面まで支配されているので、逃げ場がどこにもない。

 

この思想システムこそが「党」である。

党は「国」「社会」「法」という目に見える組織の上位に来ることはもちろん、「個人」の内面の上位にも来る。

法による支配についても、さすがに共産党がそれを正面切って否定するには至っていないが、実質的に法治主義ではなく、人治主義を採っていることはしばしば指摘される。(略)

少なくとも党が法律の上にあること、また「法治」が「法の支配」ではなく、「法を利用した(党の)支配」を意味していることは、今も昔も変わらない。

(引用元:「中国共産党、その百年」石川禎治 筑摩書房 P211/太字は引用者)

 

党の会議が法の上に立つという考えは、この時に突然示されたわけではない。(略)

党の優位性は、毛の死後、いったんは政治改革によって是正されねばならない課題だと認識されたこともあったが、結局実現を見ぬどころか、最近では逆に「党・軍・政・民・学、東西南北中、党は一切を指導する」という言葉すらまかり通るまでになっている。

それがあからさまにここまで強調されるとなると、それを共産主義やマルクス主義自体に起源を説明するのが難しくなってくる。

先に中国共産党のDNAは、マルクス主義そのものというよりも、むしろロシア共産党、コミンテルンのボリシェヴィズムに由来し、さらにそのもうひとつの来源が毛沢東だと述べたが、党があらゆるものの上に立つという観念にこそは、それをよく表していることが知れよう。

(引用元:「中国共産党、その百年」石川禎治 筑摩書房 P213‐P214/太字は引用者)

 

「党」という価値観は全てに入りこみ、人を取り巻く社会も内部も支配する。

階級や職業、配給システム、情報や法律などの社会におけるものや個人の価値観や嗜好、恋愛や家族などよりも上位に来る。

社会の構成要素(法律、階級、物の流通、婚姻や労働など)も個人の構成要素(思想、芸術、個人の嗜好など)も、全て「党の思想によって解釈されるべきものであり、その党による解釈が全ての解釈の上位に立つ」それがこの思想の恐ろしいところだ。

 

なぜ、毛沢東への個人崇拝は成立したのか。

そこに毛沢東は個人崇拝を加えたために、「毛主席への敬愛の念は、父母への親しみよりも深いもの」になる。

毛沢東という人物への親愛の情が、自分のアイデンティティを構成してしまっているので、毛沢東を批判したり否定することが自己を否定することにつながってしまうのだ。

 

先日読んだ「文化大革命 人民の歴史 1926‐1976」の中でも、毛沢東の罪は誰も追及できず、全ての罪悪を四人組に押し付けスケープゴートにすることで、人々のそれまでの毛沢東への自分たちの支持との整合性をとった、ということが書かれていた。

生まれたときから毛沢東への忠誠と親愛を内面化しているのだから、それを断ち切ることは不可能なのだ。

 

「文化大革命」の中では、毛沢東は複雑な党内情勢の中で自らの権力の維持に腐心した人間、「権力者」としての面がクローズアップされていたが、本書では別の面からも毛沢東の人間性を分析している。

毛沢東個人の像から、なぜあれほど矛盾した政策や粛清を繰り返した独裁者に人々が逆らわず従ったのかが見えてくる。

毛沢東は愛書家であるばかりではなく、書、詩に非凡な才能を見せ、名作と呼ばれる作品をいくつか残している。

古来「文」への敬意が社会の基層にある中国では、政治家としての器量、あるいは指導者としての資質は、多分にその人の「文」の水準によってはかられると信じられてきた。(略)

おのれの抱負や気概、さらにはこの世の森羅万象を、古典を踏まえた定型詩のスタイルで表現できるかどうかによって、その人の資質、もっと大げさに言えば、その人の全人格がはかれると考えられたからである。(略)

おのれの考えを美しい文字で綴れる人は、当然良き政を行うことができると誰もが信じていたし、恐らく今もそう信じられている。

その点、毛沢東はまぎれもなく、中国の多くの人を心服させるほどの「文」の人であった。

(引用元:「中国共産党、その百年」石川禎治 筑摩書房 P200‐P201/太字は引用者)

 

性急な社会主義化や文化大革命のような、今日からして無謀な企てをする毛に、結局多くの指導者が付き従ったのは何故か。

答えは難しいが、あえて単純化してひと言で言うならば、それは「この人に従っていれば、これまでにも最後にはうまくいったじゃないか。失敗に終わることはなかったじゃないか。結局はこの人についていけば大丈夫なんだ」という経験則から来る漠然とした信頼感ではなかったか。

(引用元:「中国共産党、その百年」石川禎治 筑摩書房 P196/太字は引用者)

 

中国に元々あった「人の内面性と社会を統治する能力には、密接に関係がある」という文化や国民性が大きく作用している。

この中国独自の考えかたは、「人の内面と社会の動きはリンクするので、人の内面の変革こそが社会を変えうる」という共産主義の思想と親和性が高い。

それに加えて「古典を踏まえた定型詩のスタイルで表現できるかどうかによって、その人の資質、もっと大げさに言えば、その人の全人格がはかれると考えられた」という考え方は、個人崇拝に結びつきやすい。

 

中国古来の考え方に共産主義が入りこんだ時、党が全てを支配するに足りうるもの(思想が優れているがゆえに、全肯定できるもの)、そしてその「党」を擬人化したものとして毛沢東が個人崇拝される、という流れはさほど不自然なことではなかったのだ。

 

まとめ

思想は、それを信じたり実践したりする人間の無謬を保証するものではない。

しかし思想の正しさを信じていると、「正しい思想を実践しているのだから、自分もまた正しい」と思いがちだ。だから思想は正しく矛盾がないほどむしろ性質が悪い、と思っている自分からすると、恐ろしい状況だなと思う。

 

外側から見ると是非賛否以前に、「どう考えたらそういう対応になるのか」がわからない、不可解さがようやく解けた気がした。

内容もわかりやすく面白く、多面的な描かれ方がされているので読んで良かった。