あったなあ、こんなこと。
2022年2月13日の読売新聞朝刊「あれからVol20 信じ込んだ神の手」を読んでそう思った。
2000年11月に起こった「旧石器捏造事件」。
当時さほど興味があったわけでもなく、「功名心にかられた民間の研究者が旧石器時代の遺物を捏造してしまった」くらいしか知らなかった。
調べると「日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の不祥事」様々な分野に影響が及ぶ大事件だったらしい。
そこまで大きな問題とは思っていなかった。
なぜ、旧石器時代の前期・中期がそんなに重大なのか。
「それは、日本に、我々のようなホモ・サピエンスとは違う、『旧人』や『原人』がいたかどうかということ。単に石器の問題ではないのです」(略)
もし、もっと古い「中期(4万年以上前)」や、さらに20万年、あるいは30万年以上前の「前期」が存在したとなれば、日本にも旧人や原人がいたことになる。「人類のストーリー」が違ってくるわけだ。
(引用元:2022年2月13日付読売新聞朝刊23面/池田寛樹/太字は引用者)
ここまで説明されると、なるほどとても大切なことなんだとよく分かる。
まったくの門外漢から見ると、掘りかたには「発見できるための掘り方」などないだろうから、専門家が「僕がいくら探しても出なかったのに」と思う場所で、なぜ同じ人が「神の手」と言われるくらい新発見が出来たのか、そこに何か疑問はなかったのかと、いま考えても不可解だ。
この記事ではいわば「騙された側」である当時の発掘責任者だった長崎潤一さんの視点で、「なぜ、専門家である自分も騙されてしまったのか」を検証している。
長崎さんは「研究者なら自分に都合がいいデータやファクトを疑わなくてはならない」のに、「日本に原人が存在するという説」を信じたいという気持ちを優先させてしまった、と自戒している。
長崎さんが「研究者として当たり前の姿勢」として上げている「自分に都合がいいデータやファクトを疑うこと」が出来なかったのは、何故なのか?
この記事を読んで一番驚いたのは、捏造事件そのものよりも、その背景である当時の考古学界隈を取り巻く環境だ。
2003年、それまで地域でバラバラに活動していた研究者が全国で連携し、日本旧石器学会が発足。10年には国内のあらゆる旧石器時代の遺跡(約1万200か所)のデータベースが完成し、研究成果が整理・透明化された。
(引用元:2022年2月13日付読売新聞朝刊23面/池田寛樹)
今までデータベースがなかったということは、それまでは研究者同士で情報の共有がほとんど出来なかったということだろうか。
この文章から想像すると、同じ旧石器時代の遺物を発掘しようとしていた各研究者が、それぞれバラバラに競争するように活動していたのではないか。
さらに驚いたのがこの箇所だ。
発掘現場で石器が出るとまず報道発表し、それから学会で報告する、という流れが常態化していた。
「でも、大々的に世間に発表された後だと、おかしいと思っても批判しにくい。言えない雰囲気が先に作られて、そのまま既成事実となってしまう危うさがあった」
(引用元:2022年2月13日付読売新聞朝刊23面/池田寛樹/太字は引用者)
これを読んで、この事件が起こらなくてもいつか他の事件が起こっただろうと思った。
「元々、横のつながりが弱く競争的な環境である。事実をお互いに検証し合う仕組みがなく、その意識も薄い。スタンドプレーをし、事実とすることが可能な環境」であれば、自分一人で、長年信じて追いかけてきたものを疑い検証しなければならない。
言葉を選ばずに言えば、この環境自体が「専門家としての冷静な観察眼や猜疑心を鈍らせ、捏造を事実と錯覚させるには最適の環境」と言える。
捏造した人間が一番悪いことは確かだ。
たが、個人を取り巻く組織やいわゆる界隈の仕組みや法則は、その内部にいる人間に対して強い力を持つ。
「研究者なら自分に都合がいいデータやファクトを疑わなくてはならない」
という意識を個人が冷静に働かせられるような、または界隈全体で「都合がいいデータやファクトを疑う」仕組みを作っておけば個人の弱さに対するリスクヘッジになる。
この話の中では界隈の仕組みや法則が、むしろ「自分に都合がいいデータやファクトを疑わなくてはならない」という意識を保てず、捏造を信じてしまう方向へ流されてしまうようなリスクになっている。
このままの状態で行っていたら、もっと致命的な出来事が起こっていたのではないか。
個人にのみ責任を負わせて切り捨てるのではなく、界隈全体が反省して変化したようでその点は良かった。
だが、人の心がふと弱ったり、強い心が持てなかった時に個人が悪い方向へ流れるような仕組みを作っておいて、何かが起こったら個人に責任を負わせて切り捨てて終わりという話はいくらでもある。
自分がいる世界のしきたりや法則や暗黙のルールがどういうものか、いざと言うとき自分をおかしな方向へ流すものではないか、ということは絶えず気をつけていたほうがいいなと思った。