うさるの厨二病な読書日記

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【小説感想】「作家は、社会から不当な扱いを受けることを覚悟しなければならない」迫害されたノーベル文学賞作家が描く収容所生活「イワン・デニーソヴィチの一日」

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ソ連時代にノーベル文学賞を受賞したソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」を読み終わった。

 

「文化革命時代の中国でこっそり読まれていた」と知って読み出したのだが、思いもよらずタイムリーな読書になってしまった。

 

後書きや作者本人の言葉を読むと、本作は「ロシアという国の特徴とロシア人の典型、ロシアの国民性」を描こうとするロシア文学の系譜につらなるものだ。

ドストエフスキーが「ゴーゴリの『外套』は、ロシア人の一類型を描いている」と評したように、ロシアの作家は他の国の作家よりも「ロシア人とは何なのか、どういう国民性なのか」にこだわっている印象が強い。

 

2022年2月26日の読売新聞朝刊で、ドストエフスキーの新訳(光文社版)を行った亀山郁夫がロシアの国民性について語っている。

ロシアには古来、個人の自由は社会全体の安定があってようやく保たれるという考えがある。(略)

絶対的な権力が失われれば、社会の無秩序が制御不能な形で現れるのではないかと恐れるロシア人は、グローバリズムに対抗するだけでなく、自らを統制するためにも強大な権力を求める。プーチン氏の側近が、これほど異常な決定に誰も異を唱えないのは、このためだ。(略)

ロシア人の心性には、永遠の「神の王国」は歴史の終わりに現れるという黙示録的な願望があり、それが政治の現状に対する無関心を助長している。(略)

この国民性をロシアの作家グロスマンは「千年の奴隷」と呼んだ。

(引用元:2022年2月26日読売新聞朝刊14面「視点」亀山郁夫/太字は引用者)

 

この心性を持つロシア人の一類型として、「イワン・デニーソヴィッチの一日」にもアリョーシュカというバプテスト派の信者が出てくる。

「自由が何です? 自由の身になればあんたのひとかけらの信仰まで、たちまち、いばらのつるで枯らされてしまいますよ! いや、あんたは監獄にいることを、かえって喜ぶべきなんですよ! ここにいれば魂について考える時があるじゃありませんか(略)」

(引用元:「イワン・デニーソヴィッチの一日」ソルジェニーツィン/木村浩訳 新潮社 P249/太字は引用者)

 

アリョーシュカがロシアでよく見られる一類型として描かれている、ということを考えると、大いなるものに従い管理されることがむしろ好ましい、という(それがどの程度影響を与えるかは個人差があるとはいえ)ロシア特有の心象風景があるのだろうと感じる。

 

「イワン・デニーソヴィチの一日」で描かれている大半は、「ラーゲル」と呼ばれる収容所の生活の細部だ。そこにはどういうルールがあり、どういう人たちがいて、どう生きて行けばいいかが描かれている。

どんな過酷で不自由な生活でも、外から見ると悲惨に見える環境でも、そこに生きている人にとってはその内部における日常がある。

彼らは外部から見ると「悲惨な状況に閉じ込められている人たち」に見えるが、そこにも様々な明示、暗黙のルールがあり、それによって作られた社会があり、そこで「どう生きていくか」を考える。

収容所にいる人間にとっては「ラーゲルがどういう場所か」という「外から見た考え」よりも、「自分たちの現実であるこの場所」でどう生きるか、という生活そのもののほうにずっと関心があるのだ。

 

シューホフはドイツ軍に投降して祖国に帰ったがゆえに、スパイとして収容所に送られる。

ラーゲルでの生活は過酷で悲惨だが、シューホフを始めとしてそこにいる住民たちはそこから出たい、ということはほとんど訴えず、ただそこで一日一日をいかに生きるかだけを考えている。

アリョーシュカと同じように、自分たちの境遇にさほど不満や疑問を持っているようには見えない。

 

同じように収容所に送られそこで八年を過ごした作者のソルジェニーツィンが「無実なのに有罪になった、と思ったことは一度もありません。なにしろ、当時としては許されない意見を、口に出して言ったのですから」と言っているように、物語の中ではその理不尽な運命に対する怒りは終わり間際まで描かれない。

 

だから物語の最後で、シューホフがアリョーシュカに対する反論を通じて、「千年の奴隷的原風景」に喰ってかかることに驚く。

「結局のところ(略)いくら祈ってみたところで、この刑期は短くなりゃしねえんだ。とにかく『はじめから終りまで』入っていなくちゃならねえんだ(略)

お前さんの場合は、どうやら、うまい具合にいっているらしいな。だってキリストは、お前さんに入っているように命じたわけだし、お前さんはお前さんでキリストの代わりに入っているんだからな。

じゃ、このおれはなんのために入っているんだい? 四一年にいくさの用意ができなかったためかね。(略)そんなことおれに何の関係がある?」

(引用元:「イワン・デニーソヴィッチの一日」ソルジェニーツィン/木村浩訳 新潮社 P249-P250/太字は引用者)

 

無学な一介の農民であるシューホフは、歴史が綿々と作り上げてきたアリョーシュカが語る原風景を打ち破る言葉を持っていない。

問いの建て方が稚拙なためにアリョーシュカには通じず、何ひとつ物語に爪痕を残さないまま流されてしまう。

 

当のシューホフ自身もその疑問に拘りを見せず、流されるままに忘れてしまう。元のように収容所内の社会の枠組みの中へ戻り、そこでの生活にのみ関心を向ける日常に戻る。

一日が、すこしも憂うつなところのない、ほとんど幸せとさえいえる一日が過ぎ去ったのだ。

こんな日が、彼の刑期のはじめから終りまでに、三千六百五十三日あった。

閏年のために、三日のおまけがついたのだ……。

(引用元:「イワン・デニーソヴィッチの一日」ソルジェニーツィン/木村浩訳 新潮社 P255)

 

主人公シューホフの疑問はどこにも届かず、シューホフ本人にすら顧みられることない。

シューホフがその疑問から関心を失い「収容所で生きることにのみ注力されている」状態に戻ることを以て、逆説的に彼の運命がどれだけ理不尽で悲惨かということを語っている。

 

ソルジェニーツィンは本作を描くことで、自分の、ロシア人の内部にあると言われる「千年の奴隷の原風景」と戦っているように見える。

 

ソルジェニーツィンはノーベル文学賞を受賞したにも関わらず、ソ連の作家同盟からは除名されるなど様々な迫害を受けた。

そのことについてこう語っている。

社会が作家に不当な態度をとっても、私は大した間違いだとは思えません。それは作家にとって試練になります。作家をあまやかす必要はないのです。

社会が作家に不当な態度をとったにもかかわらず、作家がなおその使命を果したケースはいくらでもあります。

作家たる者は社会から不当な扱いを受けることを覚悟しなければなりません。

これは作家という職業が持つ危険なのです。作家の運命が楽なものになる時代は永久にこないでしょう。

(引用元:「イワン・デニーソヴィッチの一日」あとがきより ソルジェニーツィン/木村浩訳 新潮社 P270/太字は引用者)

 

自分も特に太字の部分はそう思う。

「自分以外の集合体の概念」である社会と個人(自分)は、利害が対立するものだ。

社会は個人の利害を抑圧(調整)するために存在する。

多種多様な人間が共に生きるためにはそうするしかない。

 

人間は、それぞれ独自の矛盾や、欠点、悪を抱えた存在なので、一緒に生きて行く上で便宜的に「社会」を成立させている。

ラカンは「社会から歓迎されない個性」のことを特異性と呼んだが、人はみなそれぞれの特異性を持っている。

人間だから当たり前のことだが、特異性は他人(社会)にとっては脅威となる。

そもそも矛盾や欠点を抱える人間の存在が「正しさ」と対立するものなので、言葉が先行した正しさは、人間そのものを「悪」と断罪して破壊する。

人間は「正しさ」を扱えるほと強くも賢くもなく、扱っていると思っているとしたら、それは恐らく何か別のものだ。

NHKクローズアップ現代+「あさま山荘事件の深層・実行犯が獄中から独白」を見て、連合赤軍事件について再び考える。 - うさるの厨二病な読書日記

 

この特異性が生き延びる場が創作である。

シューホフが生きるスターリンの独裁下のソ連の社会では、「いくら祈ってみたところで、この刑期は短くなりゃしねえんだ」と考えること、「四一年にいくさの用意ができなかったためかね。(略)そんなことおれに何の関係がある?」と思うことはその社会では歓迎されない特異性だった。

 

スターリンの支配下のソ連においては、例え自分が無実の罪に問われたとしても「党への疑問」を持つことが特異性だった。

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創作は、その内部にいる人間には持つことが出来ない視点で、社会と対立する個人的な領域を保全し、他者と共有することが出来る。

だから「後の時代から見ると明らかに間違っていた、おかしかった」と当時の社会を相対化する視点が入ったときに(社会の内部にいる人間は、多くの場合、その社会の価値観を相対化することが出来ない)「同時代の個人の視点を共有し」断罪することが出来る。

その時代には抑圧されていた、シューホフのたどたどしい疑問が時代も国境も超えて「ここ」に届いたように。

 

創作は「社会の正しさ」にとって常に潜在的な批判者であり、だからこそ個人にとっては唯一にして最大の武器となる。

強大でその内部では是非を問えない社会を、相対化し続ける個人の目として、後世まで存在し続ける。

支配者から最初に標的にされることが多いのはそのためだ。

 

それを紡ぐことが出来る創作家は、その存在が社会(自分を取り巻く他者の集合体とそこから生成されるルール)と対立するように出来ている。

ソルジェニーツィンが言う作家という職業が持つ危険」はそこにありだから「作家の運命が楽なものになる時代は永久にこない」のだ。

 

その作家人生のあいだ、ずっと迫害され続けたソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」がこうして後世の自分が読めるのも、そういうことだと思うのだ。

 

全然関係ないが、文豪ストレイドッグスのゴーゴリが凄くカッコいい。