うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【映画感想】映画「ドライブ・マイ・カー」は原作の謎解きだったが、解釈違いが辛かった。

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*タイトル通り、基本的に否定的な内容です。

*ネタバレあり感想です。未視聴のかたはご注意下さい。

*記事内の青字は、映画・原作からの引用。

 

 

映画「ドライブ・マイ・カー」は原作の謎解きを試みている。

この映画は、原作「ドライブ・マイ・カー」のストーリーを軸に「ストーリーを」構築しているのではなく、「原作をどう解釈したか」を描いたものだ。

考察に近い。

 

最初にそう思ったのは、ストーリーがわかりやすすぎるからだ。観ている人間が解釈を入れる余地がほとんどない。

「Aという登場人物が話していることは、Bという他の登場人物の身の上に起こった出来事の解釈」

映画「ドライブ・マイ・カー」は、これを組みあわせてストーリーが進行する。

例えば手話を使うイ・ユナは、子供を流産した後踊りを踊れなくなる。「子供を失った」というつながりをもって、イ・ユナは音と重なる存在になる。

イ・ユナが家福の前で話す、その時に経験した感情、夫への気持ち、夫コン・ユンスが「妻の手話という他の人にはわからない言葉を、自分は百人分聞いた」と語る関係性は、家福夫婦の関係の反転になっている、とわかる。

 

この映画は誰かが誰かの気持ちを代弁している、時には高槻などのように自分の内部のものを不自然なくらい洗いざらい話す(原作の高槻も嘘はつけない性格だが、それは自分から話すのではなく、隠す技量がないなど人物像の違いも加わっている。)などしている。

起こっている全ての出来事について「それにどういう意味があるのか」を誰かしらが必ず言葉で説明する。

 

「この人は原作をこう受け取って解釈したのか」

というのが映画の感想だ。

その造り自体は面白かった。

自分が好きな作品の人の受け取り方を聞くのは、とても楽しい。物の見方の違いが分かるので、「自分の物の見方」も浮かびあがってくる。

 

以前「映画化や漫画化、アニメ化などは、その媒体を作った人による原作の解釈に近い」という意見を聞いたことがある。

好きな創作が実際に動いたらどうなるか、アニメや漫画になったらどんな風になるのかという以外に、作り手の解釈が入るところも醍醐味のひとつだ。

原作者がOKを出している(任せている)なら、どんな改変もありだし、むしろそのほうが別の角度から「その作品を」見れて面白い。

 

では、映画版「ドライブ・マイ・カー」が何故気になるのか。

 

①この映画は「原作の解釈」を述べているものでありながら、

②原作とはテーマも人物像もまったく違うことを描いている。

 

この二つが重なっているためだ。

①だけならば「作品に対する解釈は、人それぞれだから」と思える。②だけならば「原作とは別の世界を楽しんでください」というのはむしろ他の媒体の醍醐味だから、と思える。

 


この映画でやりたかったことは、家福が高槻にバーで話したことではないかと思う。

自分を差し出してテキストに応える。テキストが君に問いかけている。それを聞きとって応えれば、君にもそれは起こる」(1時間58分辺り)

 

監督インタビューでも「小説と往復するように見返していただけたら」と書かれている。
「ただ小説を基にした映画化」ではなく、「往復する」くらい原作との関連性が深いものなのだ

 

「原作と繰り返し往復した結論として」映画は、ストーリーもテーマも登場人物もまったくの別物だと思った。

 

①原作の主人公・家福はどんな人物で映画版とどう違うのか。

②高槻を描くにあたって、外してはいけないと思う要素。「高槻は家福にとって同一性のない『他者』である」

③みさきを描くにあたって、外してはいけないと思う要素。「みさきは親との関係に拘泥してはいけない」

④原作「ドライブ・マイ・カー」は何の話をしているのか?

⑤映画版「ドライブ・マイ・カー」は「原作版の前提」を結論として語っている。

 

自分が気になったのはこの辺りだ。今から「どうしてそう思ったか」を書きたい。

 

①原作の主人公・家福はどんな人物で映画版とはどう違うのか。

原作の「ドライブ・マイ・カー」の家福は「邪悪な人間」である。正確には「邪悪さ」を秘めた人間だ。

「ドライブ・マイ・カー」は「邪悪さ」を自分の中に抑えつけて気づきもしなかった家福が、妻の不貞に対する疑問によって「邪悪さ」を発動する寸前の危ういところまで行く話なのだ。

 

原作の家福はどんな人間か。

どのような場合にあっても、知は無知に勝るというのが彼の基本的な考え方であり、生きる姿勢だった。

たとえどのような激しい苦痛がもたらされるにせよ、おれは「それ」を知らなくてはならない。知ることによってのみ、人は強くなることが出来るのだから。

(引用元:「女のいない男たち/ドライブ・マイ・カー」村上春樹 文藝春秋/太字は引用者)

 

この独白を読んだだけでも、強烈な人間だ。(映画版のラストのようなことを話す人間とは、別人であることがわかる)

この考えに基づいて、家福は自分から妻の愛人であった高槻に近づく。

原作ではこの家福の行動に、家福と同じように自立的で強い意思を持つみさきですら、「みさきは話の内容を呑み込むのに少し手間取った」「みさきは大きく呼吸した」と戸惑い、引いている。

高槻も家福の真意が測り切れず、「急にそう言われて、高槻は驚いたようだった。ショックを受けたと言った方が近いかもしれない」という態度を取っている。

 

映画版では、常に高槻のほうから家福に近寄っていく。

些細な違いに見えるかもしれないが、そこを変えるだけで、家福の性格、高槻の性格、二人の関係性が変化してしまう。

「死んだ妻の愛人に自分から近寄って友達になる」ところに、「たとえどのような激しい苦痛がもたらされるにせよ、おれは「それ」を知らなくてはならない。知ることによってのみ、人は強くなることが出来るのだから」という家福の「生きる姿勢」が現れている。

そしてその「生きる姿勢」を暗喩するものが、タイトルにもなっている「車を運転すること」だ。

 

家福は、自分の「盲点」が許せない人間だ。

家福は妻よりも高槻よりもこの「盲点」にこだわり、「怒りのようなもの」「本当は怒りではなく、何か別のものだった」ものを抱いている。

「行き場のない魂が天井の隅っこにずっと張り付いていて、こちらを見守っているみたいに」

他の人間であれば、「見えないのだから」とやり過ごすことを、「どのような激しい苦痛がもたらされるにせよ、おれは「それ」を知らなくてはならない」という姿勢で生きているのが、家福という人間なのだ。

 

しかしそういう姿勢は、家福もわかっているように「激しい苦痛」をもたらす。常人に耐えきれることではない。

原作のバーでの家福と高槻の会話、家福が高槻を見る視線には、強烈な悪意が含まれている。

映画版も緊張感はあったが、「普通の」わだかまりがある者同士の緊張感だ。原作で描かれた、家福の悪意の比ではない。

高槻を前にした原作の家福は「悪意そのもの」にすら見える。

「盲点を見ようとする激しい苦痛」はここまで、人を邪悪にするのだ。

 

②高槻を描くにあたって、外してはいけないと思う要素。「高槻は家福にとって同一性のない『他者』である」

主人公の家福が原作とは異なる人物だから、高槻とみさきの人物像も異なる。それにしても「そこは外したらまったく別人になってしまうのでは」と思う箇所をことごとく外している。

 

高槻は、家福の人物像のところで書いたように「愛人の夫から飲みに誘われた」驚きを、「ショック」を素直に表す人間だ。後で家福が評するように、「正直だが奥行きに欠ける」。

自分から家福に寄っていく「ある種の図々しさ」を持つ、映画版の高槻とは明らかに違う。

「原作の高槻と映画の高槻が違うこと」が気になるのではない。

「原作の高槻は明らかに家福とは共通性がない人物=他者」として描かれているのに、映画版はそうではないことが気になるのだ。

原作の家福が最も疑問に思ったことは、妻が男と寝ていたことではなく、(自分と似たところがない)「他者」と寝ていたことだ。

 

原作でも「同一性が示唆される人物」が出てくる。

みさきと家福の娘だ。みさきが家福の娘と同い年、みさきの父親が家福と同い年ということを以て、ストーリー上、「みさきは家福の娘をある程度代替する」と読める。

「みさきと家福の娘の同一性」に対して、家福と高槻は「違う人物である(同一性がない)こと」が繰り返し強調されている。

 

前述の家福のある意味異常な行動に、高槻がまともな反応を返すこともそうだし、高槻が「性格の弱さ」を取り去るために酒を飲み過ぎるのではないか、という推測も「知ることによってのみ、人は強くなることが出来る」という家福の鋼鉄の意思との対比になっている。

「激しい苦痛をもたらしても」高槻を冷静に観察する家福に対して、高槻は

誰かがそこの勘定を払わなくてはならないという考えは、高槻の頭に浮かびもしないようだった。アルコールは彼にいろんなことを忘れさせてしまう。おそらくいくつか大事なことを。

(引用元:「女のいない男たち/ドライブ・マイ・カー」村上春樹 文藝春秋)

死んだ愛人の夫の前で泥酔し、勘定を払わせてしまう。

 

「しかし奥さんがどうしていその人とセックスをしたのか、どうしてその人でなければならなかったのか、家福さんにはそれがまだつかめていないんですね?」

「ああ、つかめていないと思う。(略)はっきり言ってたいした奴じゃないんだ。(略)敬意を払えるような人間ではない。正直だが奥行きに欠ける。弱みを抱え、俳優としても二流だった。(略)

なぜそんななんでもないに心を惹かれ、抱かれなくてはならなかったのか」(略)

(引用元:「女のいない男たち/ドライブ・マイ・カー」村上春樹 文藝春秋/太字は引用者)

 

高槻は、余りに家福と違いすぎた。

だから「妻がなぜ、こんな男に心惹かれたのか」がわからないことが自分の盲点から生じているのではないか、と考え、それを知るために高槻に自分から近づいたのだ。

 

二人の最大の違いは、この後のみさきの答えである。

奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか?

(引用元:「女のいない男たち/ドライブ・マイ・カー」村上春樹 文藝春秋/太字は引用者)

家福の妻は、家福を深く愛しており高槻のことは心を惹かれてさえいなかった。

「二人はまったく共通点がない」ということが繰り返し強調され、「だからこそ妻は高槻と寝たのだ」ということが結論になっている。

 

それに対して映画版はどうか?

原作とは逆に「家福と高槻の同一性」が強調されている。「高槻はもう一人の家福」にさえ見える。

映画だけを見ればそれはそれで面白いが、原作と比べると首を捻ってしまう。アレンジというレベルではない。まったく真逆の人物、関係になっている。

家福と高槻の同一性は上げるとキリがないが、一番は、音の二人に対する態度だ。

 

音は、家福にも高槻にも性行為中に同じ話をしている。

この話の中に出てくる空き巣に入る女子高生(原作ではシェエラザード)は、音の代替である。(この話の組み合わせかたはよかった)

音が家福と行為をしている最中の言動でもわかるが、音は性行為という軸においては(家福を本当に愛しているにも関わらず)家福と高槻を同じように扱っている。

二人との性行為は「自分で行うという禁忌を犯す」ための手段であり、その「禁忌を犯すことで前世から続く因果の輪を」終わらせるという意味を持つ。

音にとっては、家福との性行為も高槻との行為も同じ意味しかない。

家福がずっと演じていたワーニャ伯父さんを高槻が演じることが可能であることも、家福と高槻の同一性を高める。

 

また映画版の高槻は、「盗撮をした男」を殺害することで、原作の家福の暗さを代替している。(家福が高槻を殺す代わりに、高槻が男を殺害しており、男を殺害したことで高槻は、原作の高槻を破滅させようとしていた家福の暗さを代替する存在になる)

二人に同一性があるから、映画版では家福と高槻は「車の中で」音についての決定的な話をするのだ。

 

映画版の家福はごく普通の人間であり、原作の家福が持つ異常性を高槻が代替している。(しきれていないが)だから高槻のほうから、何度も家福に近づく。

 

③みさきを描くにあたって、外してはいけないと思う要素。「みさきは親との関係に拘泥してはいけない」

家福と高槻の人物像については、自分があまり拘りがないこともあり、「まあこれはこれで」と思えた。

自分がこの映画で一番納得がいかなかったのは、みさきの人物像だ。

「みさきが親に対して、他人のように無関心だ」ということは、みさきの人物像においても「ドライブ・マイ・カー」という話においても、外してはいけない要素ではないかと思う。

「母は亡くなりました」(略)

「気の毒に」と家福は言った。

「自業自得です」とみさきはあっさりと言った。(略)

「悪いけど、死んだときには正直ほっとしたくらいです」

(引用元:「女のいない男たち/ドライブ・マイ・カー」村上春樹 文藝春秋/太字は引用者)

これがみさきだ。少なくとも、原作にはこう書いてある。

親の死について「『自業自得』とあっさり言う」人間なのだ。

悲しみはおろか、怒りも恨みもない。あるのは辛辣に見える無関心だけだ。

 

「運転はどこで身につけたの?」

「(略)十代半ばから車の運転をしています。車がなければ生活できないようなところです。(略)運転の腕はいやでも良くなります」

「でも山の中で縦列駐車の練習は出来ないだろう」

彼女はそれに返事をしなかった。答える必要のない愚問だということなのだろう。

(引用元:「女のいない男たち/ドライブ・マイ・カー」村上春樹 文藝春秋/太字は引用者)

「運転(生き方)は自分で実地で身に着けた」

「答える必要のない愚問」には雇用主からの質問だろうと答えない。

母親の死は「自業自得だ」といい無関心。

みさきは車の中で棒読みのような言葉を吐いて「僕のリズムでセリフを言えば、ピッタリ次のセリフがくる」(1時間30分くらい)と家福に思わせる人間ではない。

 

なぜこんな風に、みさきの人物像を「家福(親)のためのもの」に変えてしまったのかわからない。

「みさきが親に思慕を持ち、家福(親)のために存在していること」を示唆する文脈がなぜまずいのかと言うと、前述したように「みさきは家福の娘と同一性を持つ」からだ。

死んだ娘がこうだったら」という家福の願望を表しているものになってしまう。

娘は家福と妻にとって、大事な徴だった。

もし娘が生きていて、原作のみさきのように「親に生き方を教わらず、一人で生きてきた」「親の死は自業自得」という「家福(親)にとって、都合の悪い娘」でも、家福と妻にとって徴として存在していた、機能するのだということが大事なのだ。

みさきがクールで親に関心がない「親のための存在ではない娘」だとしても、その喪失はとてつもないものを家福と妻にもたらした。

 

対して映画版の最後の展開は「みさき(娘)は、家福の喪失を癒すために存在している」ようにしか見えかった。

原作のみさきは生き方を自分で獲得し、自立して一人で生きる一匹狼のような存在だ。

自分が応える必要のない質問だと判断すれば、それを「愚問だ」と断じる鋼鉄の意思を持つ。

「君の肩を抱いて言ってやりたい」(←どこから出て来たんだろう?)などという、他人からの慰めを必要とする人間ではない。

 

④原作「ドライブ・マイ・カー」は何の話をしているのか?

原作の「ドライブ・マイ・カー」は、何を話しているのか。

「盲点(わからないということ)がどれだけ人を蝕み、暗い心性に追いやるのか」ということが描いているのだと思う。

家福は「自らの盲点を見ようとして、その激しい苦痛によって悪意の塊になる、あと一歩のところ」だった。

原作では、「他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐに見つめるしかない」ということが強調されている。

それに対して妻に対する疑問は、「そういうのって、病のようなものなんです」という割とぼんやりとしたもので終わるのはそのためだ。

 

この話は「妻(音)の中の、僕が覗き込めないドス黒い渦」(2時間4分辺り)を知ろうとする話ではない。

家福の中の「ドス黒い渦」を見つめる話だ。

 

⑤映画版「ドライブ・マイ・カー」は「原作版の前提」を結論として語っている。

映画版の最後でみさきが言う

「音さんには何の謎もないんじゃないですか?」

「何の嘘も矛盾もないように思えるんです」

それはその通りだと思う。

ただだとすると、車の中で高槻が語った「監視カメラに向かって私を見ろ」と叫ぶ夢の続き、「音さんは本当は気づいて欲しかったんじゃないですか?」という話は何だったんだ、と言う話になる。

映画版は「わからない」に耐えきれず、かなり詳細に音の内面を述べている。

他人の「ドス黒い渦」を言葉で詳細に表現してしまうのか、という困惑もさることながら、自分が映画版のラストを「え?」と思ったのは、ここまで「わからない」に耐えきれず二時間半に渡って原作の解釈をしていたのに、最後の最後で「音さんには何の謎もない、と思うことは難しいですか?」と言い出したことだ

「難しい」から、二時間半もかけて「ドス黒い渦」の詳細に語ったのでは……。

原作はそれがどれほど難しいか、ということを語りながら「盲点が生む自分自身のドス黒い渦」を乗り越えた。

 

「他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐに見つめるしかない」

家福は自分自身の盲点を、「妻のドス黒い渦」だと思い、それを覗きこもうとした。その激しい苦痛によって、高槻を破滅させる邪悪そのものに陥る一歩手前までいった。

その恐ろしさを描いた話なのだ。

 

映画版の家福は、ラストで「僕は傷ついたことを認めるべきだった」と言っているが、原作の家福は妻の不貞がもたらした感情(怒り)から出発している。

その激しい苦痛をもたらす怒りに耐えて、破滅させたいとまで望む男の前で演技しきるのが、原作の家福の異常さだ。

もう怒りを感じなくなっていた。あるいはそれは本当は怒りではなく、何か別のものだったのかもしれない。

(引用元:「女のいない男たち/ドライブ・マイ・カー」村上春樹 文藝春秋/太字は引用者)

 

原作の家福は、自分の感情を認めそれに耐えることから話を始めている。それが家福の「生き方」だからだ。

そうして、邪悪に落ちるか落ちないかのギリギリのところで引き返したのだ。

 

どこまでいっても家福自身、自分自身の生き方の話だ。

なぜそれが、他の登場人物に自分の傷を投影することでようやく自分の傷を認められた、という話になってしまったのか。

ラストのみさきの実家でのシーンは見ているのが辛かった。

 

まとめ:映画版の一番好きなところ

この映画が「自分をテキストに差し出し」たのではなく「差し出されたテキストを自分が読む」のならば、こんな風には気にならなかった。

創作の読み方は自由だからだ。

 

「自分をテキストに差し出す」のに、なぜ書かれていることとことごとく真逆のことをやったのか。

家福も真逆、高槻も真逆、二人の関係性も転倒している、みさきも真逆、妻と家福の関係も違う、さらに原作の前提が映画の結論になっているため、見ている間、ずっと頭の中に疑問符が浮かんでいた。

 

映画は「ドライブ・マイ・カー」ではない。少なくとも原作とは全くの別物だ。

ただ「自分をテキストに差し出した」というセリフは映画とは関係なく「原作と無関係の映画」であるなら、ラストのちょっと使い古された結論をのぞけば、それなりに面白かった。

 

自分がこの映画で一番好きなところは、たかだか20ページほどの短編を三時間の映画に仕上げたそののめり込みぶりだ。

色々書いたが、多少「?」と思っても、その情熱だけはいい映画だなと思った。

 

 

と言いつつ納得がいかないのでもう少し本音で書いた。

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