うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「陰謀論」とは、その人の内部でのみ働く固有のストーリーにハマってしまっている状態だと思うので、ハマらないために気をつけたいこと。

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・2022年3月16日(水)読売新聞の朝刊の「虚実のはざま」(東京工業大学准教授・西田亮介氏)の記事と下記の記事を読んで、「陰謀論」について考えた。

 

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「陰謀論とは何なのか」「なぜ、それに囚われる人がいるのか」ということに、以前から興味があった。

上記の二つの記事を読んで考えたことを整理したい。

 

情報取得においては、「自分というバイアス」をいかに外すかが重要。

増大する情報量に対し、人間の注意力や認知能力は限られている。SNSに流れる投稿の真偽確認に手間や時間をかけられる人は多くはない。

そもそも一般の人には、調べるインセンティブ(動機付け)が働きにくい。人は自分の価値観や願望に合う言説に触れていたい習性があり、いくらでも自分の好みのものが得られる環境で、あえて根拠を確かめる気持ちにはなりにくいだろう。

まずは情報過剰の特性を理解し、新たな脅威ととらえる必要がある。

(2022年3月16日(水)読売新聞の朝刊「虚実のはざま」/東京工業大学准教授・西田亮介/太字は引用者)

 

今も朝刊を一通り読むのは、新聞はネットよりも情報の取得の点では「自分というバイアスがかかりにくい」からだ。

 

新聞で重要なことは内容以上に、「見出し」「その記事にどれくらい紙面を割いているか」「一面から三面の中で、どの記事をどこに配置するか」「記事と記事の紙面の大きさの比較」「政治・経済・国際の今日のニュースを網羅している」という、他人の目を通した情報の重要度だと思う。

ネットは「注目が注目を呼ぶ」部分が大きく、「その時点での注目度」以外の軸が見出しにくい。

例えば今日の朝刊の二面に春闘の賃上げの記事が載っているが、こういうニュースはネットでは目につきにくい。(もちろん話題にしている人もいると思うが)

自分もつい自分が興味のある記事から興味のある記事へと渡り歩いてしまい、注意していても、いつの間にか「自分の興味・趣味」の道筋を辿ってしまう。

 

新聞は「自分というバイアスを外そう」と注意をしなくとも、自動的に「他人による情報の取捨選択の目・重要性」のルートにのれるところが便利だ。

 

情報が溢れている時代でなるべくフラットに情報に接したいと思ったら、「自分というバイアスをいかに外すか」が重要だと感じる。

「情報を判断する過程」ではまた違うが、「情報を取得する過程」では大切なことだ。

 

「人は自分の価値観や願望に合う言説に触れていたい習性があ」る上に、今の時代のネットの情報は、プラットフォームに出来るだけ滞在させるためにその性質を助長する仕組みが強烈に働いている。*1

 

今のような情報過多時代に自分の中に「なるべくフラットな情報取得の仕組み」を作るためには、紙面としての新聞が比較的有用ではないか、というのが自分の考えだ。

この自分の内部の仕組み作りにおいては、ネットは新聞紙面の代替にはならない。むしろ正反対の性質を持っている。(それが利点になる場合もある。)

 

「なるべくフラットな情報取得の仕組み」にこだわるのは、上記で西田氏が書いている通り

①人間の注意力や認知能力は限られているため、情報ひとつひとつの真偽確認に手間や時間をかけられない。

②人は自分の価値観や願望に合う言説に触れていたい習性がある。

 

自分で自分の「情報取得の仕組み」を意識して作らなければ、「情報の取得においても判断においても自分というバイアスが最大限かかった状態で物事を判断する」ことになるからだ。

 

SNSでの情報取得は趣味の範囲に限っているのは、SNSは「自分というバイアスが最も強力に働く仕組みだ」と思っているからだ。趣味の範囲で使うぶんにはこの仕組みが利点になるので、便利で楽しい。

 

陰謀論は、その人の内部で強力に作用している個人的なストーリーが世界全体で機能していると誤認している状態

ただ趣味のように「他人と世界観を共有するのも楽しいが、共有しなくても困らない領域」とは違い、他人と事実や事実に対する認識を共有しなければならない領域では、「自分というバイアスが強力にかかる」のは危ういと感じる。

「自分という強力なバイアスがかかっている状態」は、「自分の内部のみで機能している法則性が、すべての他人、全世界で機能していると誤認している状態」だ。

 

もう少し違う言い方で言うと、「自分の内部で生成されている個人的なストーリーが、全世界で通用すると錯覚している状態」と言うことも出来る。

自分は「陰謀論」の正体はこれではないかと思っている。

 

なぜ自分の個人的なストーリーが全世界に通用すると錯覚してしまうのか。

 

至上最悪の偽書「シオン賢者の議定書」をテーマにした小説「プラハの墓地」の中で、主人公のシモニーニがこんなことを言っていた。

 

私は、陰謀の暴露話を売りつけるためには、まったく独自のものを渡すのではなく、すでに相手が知っていることを、そしてとりわけ別の経路でより簡単に知っていそうなことだけを渡すべきだと考えるようになった。

人はすでに知っていることだけを信じる。これこそが「陰謀の普遍的形式」の素晴らしい点なのだ。

(引用元:「プラハの墓地」 ウンベルト・エーコ/橋本勝雄訳 東京創元社 P99/太字は引用者)

 

人は「そうだったのか!」と思うことではなく、「やっぱり思った通りだった」と思うことを信じる。

だから相手が信じていること(もしくは信じたいこと)を、別のルートから渡すのが「偽書作成の秘訣だ」と語っている。

 

①人間の注意力や認知能力は限られているため、情報ひとつひとつの真偽確認に手間や時間をかけられない。

②人は自分の価値観や願望に合う言説に触れていたい習性がある。

 

上記に書いた通り、人にはこういう傾向があるから、「自分がやっぱりそうだったのか、と思う情報については真偽確認をせずに受け入れてしまう」

そしてその「真偽確認をせずに受けいれたくて受け入れた情報のみを根拠にして、ストーリーを展開していく」

そのストーリーは、その人にとっての「やっぱりそうだった」が繰り返されるストーリーであるため、内部で強力に機能し「自己の居場所」になる。

 

恐らくこういうことが起こるのではないかと思う。

 

これについても「プラハの墓地」では、まったくのデタラメを書いていたと自分自身で百も承知していたシモニーニでさえ

物語の最後で、自分が培ってきた偽文書作りの総決算である「シオン賢者の議定書」をロシアの諜報員であるゴロヴィンスキーに渡してしまうと、シモニーニは自分が「空っぽになった気がした」

祖父から受け継いだ憎悪を元にして若いころから作り続けてきた、ユダヤ人のラビたちが世界を支配する計画を立てた場所とされるプラハの墓地は、シモニーニ自身の居場所だった。

彼は自分自身の居場所であるから、架空の陰謀論を延々と書き続けてきた。他人の目には荒唐無稽なもので現実では虚構であっても、シモニーニにとっては真実であり、真実以上に「彼自身」でもあるのだ。

 

自分の中では、自分が人生において情熱を傾けてきたものであるがゆえに「真実」として機能してしまい(書いていることは嘘八百でも、それを書いているシモニーニの情熱は本物であるために)、最終的には自分自身の居場所になっている。

 

人の内部ではその人が生きてきた中で培われた固有のストーリー(価値観や生き方でもいい)が強力に機能しているからこそ、他の人と共有しなければならない物事を見たり、情報を得たりするときは「自分というバイアス」をなるべく外さないとすぐにそちらに引っ張られる。

 

陰謀論にハマったときは、「主張すること」自体が目的になる。

「陰謀論にハマっている人と自分の何が違うのか?」「自分がいま、陰謀論的なストーリーにハマっていないと何をもって考えられるのか?」ということも考えてみた。

上にあげた「プーチン擁護メール」の記事を読んで「ここで見分けられるのではないか」と思ったことがある。

 

「プーチン擁護メール」記事のひとつ目の見だしは「陰謀論者が掲げる3つの主張」となっている。

「情報の取得や精査」よりも「主張」がメインになっている、「インプットが目的ではなく、アウトプットのための手段になっている」と感じたら気を付けたほうがいいのではないか。

 

 一見すると “トンデモ” に思える陰謀論の数々――。それでも信じる人が多い理由について「反証できない」という特徴があげられる。「〇〇がないことを証明できないのであれば、〇〇は存在する」という「悪魔の証明」に近い状態だ。

(引用元:“プーチン擁護メール” が続々と…評論家・古谷経衡氏が警鐘「ウクライナ侵攻で “笑えない陰謀論” が復活した」きちんと叩かないと“第2のオウム真理教”を生む! | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌])

 

この部分を読んで、「うん?」と思った。

「反証できないからそうである」というのは、証明(情報の取得と精査)が相手任せになっており、自分自身は主張のみをしている状態になっている。

「反証のしようがないから真実だ(反証出来ないことが、真実である根拠だ)」と言う時点で、その情報自体には(少なくともその情報の真偽には)興味がないように見える。

 

この構図自体が悪いというのではなく(例えば趣味の範囲で言えば、『個人の感想』に近い。個人の感想は反証のしようがないが、別に悪いことではない)こういう状態だったら、「個人の感想」「個人的なストーリー」を展開しているのかな、それを展開することが目的となっているのかな、と疑う材料になるのではないか。

 

陰謀論にハマった時に「主張すること(アウトプット)」が目的になるのは、自己の世界観の補強が目的になるからではないかと思う。

 

陰謀論から脱出する方法

では「陰謀論=個人的なストーリー」から脱出するにはどうすればいいのか。

陰謀論というのは、身体的にも心理的にも遠くで起きている出来事に対して、非常に盛り上がりを見せる傾向にあります。

(太字は引用者)

 

自分の実感がない出来事ほど、概念として好きにこねくり回せる。

身近な人にワクチンを絶対に打たせないという人もいるので、一概には言えないが、自分が実際に経験した、実感した出来事ほど概念として扱いにくい、妄想の入る余地がないというのはその通りだと思う。

 

オウムに入信して 地下鉄サリン事件を起こした林郁夫も著書の中で、「自首を決意したのは、自分が殺したのは『救済すべき人』『オウムに敵対する勢力』などという概念ではなく、『高橋さん』『菱沼さん』という家族や友人もいる一人の人間なのだ、と気づいたときだ」と語っている。

 

まとめ:陰謀論に取り込まれないために気を付けたいこと三点

ここまでの考えで、「陰謀論」に取り込まれないために、こういうことを注意するといいのかなと思ったことが以下の三つだ。

 

①(特に政治や社会などの問題については)情報の取得に際して、「自分というバイアス」がなるべくかからない方法を模索し、その仕組みを作っておく。

②情報の取得自体が目的ではなく、「自分の主張のための手段」になっていないかを注意する。(「反証できないことは事実である」のように、情報の真偽の精査が相手任せになっている場合は、「主張することが目的になっている」可能性が高い。)

③自分が「急いで強い主張をアウトプットしようとしている」と感じる場合は、もう一度考え直す。インプット→アウトプットの間に、十分な時間を取る。

 

今は大量の情報を手軽に手に入れられる時代なので、自分の中の結果に即した情報を選んで加工すればいくらでもそれらしい(だから自分も信じてしまう)ストーリーを組み上げることが出来る。

そのストーリーを居場所にしてしまっている人をそこから離すことは至難の業なので(そのストーリーに基づいて、人を殺すことさえ正当化してしまうケースもあるくらいなので)出来ることは、自分自身がそういうものに取り込まれないように気を付けることくらいだ。

 

洗脳について考えた時に「情報の遮断が大きな条件になる」と考えたが、「自分自身や洗脳者のみの認識」という狭い箱の中に入らないという意味では、陰謀論も似ている。

「洗脳」について考えた時は、人のそういった性質を利用する人間がいるから警戒しないといけないと思ったが、今は自分から自分の作った箱に入ってしまわないように警戒しないといけない時代になっている

ところが皮肉だなと思った。

 

 

補足。

www.saiusaruzzz.com

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ユニクロやAmazonへの潜入取材でも有名な横田増生の本。

面白そうなので読みたい。

 

 

陰謀論にハマった人の過程と精神状態が分かりやすかった。

 

*1:あくまで「情報をフラットに取得する」という点では弊害になると思っているだけで、例えば趣味のことを調べたい、自分の好みのものを手早く見つけたいという場合は便利だと思っている。