うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「陰謀論」と「世界観なきエリート」の相性の良さ&どう見分けていくか。

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「陰謀論」について考えたことの続き。

 

「陰謀論」について考えているうちに、「世界観なきエリート」と陰謀論は相性がいい(?)なとふと思いついた。

 

「世界観なきエリート・辻政信」のような人間と、その人が招く分断をどうすればいいのか。|うさる|note

 

頭は抜群にいい。

ただその見える距離や範囲が圧倒的に狭い。

目の前の物事をどう利用したら、どうなるかは分かる。現時点での自分にとって何が有利かもわかる。

でもその先のことは何も見通さないし、「何十年後かの未来がどういう世界になるのか」ということは、(見えないから)興味もないので、結果的に無責任になる。そもそも自分がそういう広い世界(未来)に関与しているという実感さえない。

「いまここで巧くやる、小手先のことは巧いがその先のことや目の前にあるもの(自分の視野)以外のことは何もわからないから興味がない。結果的に無責任な人間」

 

「世界観なきエリート」とは、前田啓介著「辻政信の真実」の書評を書いた、評者の加藤聖文が辻政信を評した言葉だ。

 

(自分が理解した限りでは)「自分の目先の利益のために、仕組みや主張を利用する人」のことだ。

今で言えば「主張の中身を実現すること」ではなく、「耳目を集めることを目的に、主張するという手法を取る」、炎上系と呼ばれる人などがそれに当たる。

 

 

一般的に人が何かの主張をするときは、下記のような道筋をたどる。

 

固有の世界観がある

→その世界観を体現するための目的がある

→その目的のために主張する、などの手法を使う

→その主張に共感が広がり、結果的に注目を集める

 

「世界観なきエリート」の場合は、この目的と手法が転倒している。

 

自分(のみ)の利益を最大限追求する

→そのために注目を集めることを目的とする

「注目という目的」のために、主張を行う

→主張の組み合わせによって、結果的にそれらしき世界観が生成される。(結果的に生成されただけの世界観なので、実はそこには興味がない)

 

例えば商売の宣伝などのように、「まずは知ってもらう(注目を集める)こと」を目的として、注目を集めるためにアウトプットすることはある。

 

商売と主義や思想の分野では何が違うか、と考えると、

商売は基本的には「より多くの人に受け入れてもらう」ことを理想とする。

少なくとも「敵を作ること」にメリットがない。

 

しかし主義や思想は、「共通の敵を作ること」で内部の結束(世界観)が強固になる性質があるために、「仮想敵に対する攻撃」もメリットがある。

だから「攻撃・排除」「分断」という手法をとる人間が出てくる。

 

①自分に盲従させるための手法として、人を囲いこめる世界観を形成する。

②その世界観を形成する手法として、仮想敵を作り、その仮想敵を攻撃するという方法も使う。

③攻撃する(世界観から排除する)ものを作ることで世界観の内部を強固にする。

 

この手口は、オウムなどを見るとわかりやすい。

すべて目的と手法が転倒していて、真の目的は「自分に盲従させるため→そのことによって自分の利益をはかる」だ。

 

こういう「注目を集めるために主張する」「世界観なきエリート」は陰謀論と非常に相性がいい。

だから見分ける方法としては、「陰謀論」の時に考えた

 

「反証できないからそうである」というのは、証明(情報の取得と精査)が相手任せになっており、自分自身は主張のみをしている状態になっている。

「反証のしようがないから真実だ(反証出来ないことが、真実である根拠だ)」と言う時点で、その情報自体には(少なくともその情報の真偽には)興味がないように見える。(略)

陰謀論にハマった時に「主張すること(アウトプット)」が目的になるのは、自己の世界観の補強が目的になるからではないかと思う。

 

情報の取得と精査は相手任せにしており、ゆえに「『情報の真偽自体には興味がない』と推測できる」

→「その真偽に興味がない情報を自分の主張の根拠としている」

→「ゆえに『主張すること自体が目的』とわかる」

 

こういうことが、警戒の目安になる。

 

 

今の時代は「わかりやすさ」と「注目度」のインセンティブが非常に高いので、政治や思想などの分野は「他者を攻撃・排除することで世界観を囲い込むのような主張は危うい」とわかっていても、そういう主張に価値が見出されやすい。

 

自分も政治や思想、主義などの分野では、「わかりやすさ」に特化した主張には(一応)警戒しているつもりだが(本も同じジャンルで何冊か読んだり)、それでも難しいと思うことがある。

本音を言えば、わかりやすく単純化された世界観や主張のほうが理解するのに楽だし、見ていて(聞いていて)楽しい。

 

だが「世界観なきエリート」は、正にそういう「人の楽をしたい気持ち」を突いて人の認識をハックしようとする。

「陰謀論」というのは、恐らく「人の思考を誘導するために作られた、単純化された世界像」だからだ。

 

世界というのは何が何やらわからないほど複雑で、知れば知るほど自分の手に負えないなと思うことが多々ある。(というか、ほとんどのことがそうだ。)

知っても知っても調べても調べてもキリがなく、自分のやっていることの無力さと無意味さを感じるときがあるが、世界のキリのなさと自分の限界を知って、「わかりにくさ」と根気よく付き合っていく気持ちが大切なのかなと思う。

 

 

と言いつつ、まだ読めていない……。