思想や哲学は、それ以前の世代の考えや議論を前提として、それに対する主張や批判を行っていることが多いので、全体の流れを理解しないと個々の思想も理解することは難しいと感じる。
この本は「全体の流れを理解する」という目的にはピッタリの本だった。
これ一冊でそれぞれの思想家の考えひとつひとつを理解する、どころか概略をつかむのもほぼ不可能だろうと思ったので、「その時代にこういう考えを持つ〇〇という人物がいた」というガイドブック的な役割以上のことを求めるのは厳しい。
「哲学・思想の今日までの大まかな流れを知りたい」という目的の人にはおススメしたい。
改めて哲学・思想の流れを追うと、個々人の考えの細かい違いはあれど、「その時代に共通するテーマ」が見えてくる。
11世紀~17世紀にかけては、アンセルムス、トマス・アクィナス、エラスムス、スピノザなど神学者、宗教関係者が多い。
この時代は「人にとっての神(絶対)とは何なのか、どう証明するのか」が大きなテーマになっている。
まだ科学などが発達していないので、人の手が届かない場所に「絶対的な何か≒神」があることを人は想像していた。
その想像が妥当かどうか、妥当だとすればどう証明すればいいのか、限りある存在である人間はその絶対的何かとどう付き合えばいいのかが主に考えられている。
17世紀半ばごろから、この潮流に変化が見え出す。
「世界」という大きな枠組みが明らかになり始め、思想を考える上でもその存在を意識するようになる。
人間を取り巻く世界とは何なのか、それをどう認識すればいいのか。
「人間が対象をどう認識すればいいのか、認識判断する方法にはどんなものがあるのか」ということで、アリストテレスを源流とするイギリス経験主義とプラトンから始まる大陸合理主義の二派による対立が起こる。
この二派を統一したのがカントであり、カントから始まるドイツ観念論を完成させたのがヘーゲルである。
ヘーゲル哲学は「人間が世界をどう認識、把握するか」の問題の集大成だ。
面白いなと思ったのは、後世の目から見ると哲学や思想は純粋にそれひとつで完成されており世俗・形而下的なものとは無縁のように見えるが、その時代背景やその思想家の置かれた状況が大きく影響しているところだ。
当時のドイツは内部で分裂しており、英仏などの他のヨーロッパ諸国に比べて後進的だと見られていたために、ヘーゲルは哲学によってドイツを再生させようとした。
哲学をドイツ再生のための方法として使った、と聞くと「そうだったのか」と思う。
ヘーゲル以後は、「ヘーゲル哲学をどう捉えるか、どう批判するか」を基軸にして流れが分裂していく。
フォイエルバッハのように、ヘーゲル主義からヘーゲル批判者に転換する人も多い。(影響を受けて、後に批判者に転じる。思想分野はこういう人が多い)
ヘーゲルへの主な批判は
①マルクス主義
②ショーペンハウアーのペシミズム
③キルケゴールを始祖とする実存主義
の三方向から行われる。
この三つの方向が、そのまま後世の思想の主流と重なることを考えると、西洋哲学におけるヘーゲルの存在感の大きさがわかる。
特にマルクス主義はヘーゲル哲学と同じ様に、「サルトルの実存主義もレヴィ・ストロースの構造主義もハーバーマスのコミュニケーション的行為論も、マルクスの唯物史観にどう対応するかという視点から形成された」のだから、やはり巨大な思想だったのだなと思う。
キルケゴール以後は、「人間固有の存在のしかた」をどう考えるかが主流となる。
19世紀末にベルクソンが取り上げたように、自然科学というある種の「正しい世界像の見方」が確立したため、その世界で生きる「人間とは何なのか」「自分とは何なのか」がテーマになっていく。
ニーチェの超人論、フッサールの現象学、ハイデガーの存在了解、サルトルによる実存主義ブームが起こる。
二十世紀後半は「絶対像のある世界」ではなく、「多様な人間が集まる社会構造の捉え方」にテーマが移る。
テイラーのコミュニタリアニズム(共同体主義)やハーバーマスのコミュニケーション論、ローティの言語論的展開など、他者とどう付き合いどんな社会を形成するかが主眼になっているように見える。
以上が本書から自分がざっくりと理解した、哲学・思想の主な流れだ。
「具体的な国家そのものではなく、グローバルな世界秩序そのもの」を「帝国」になぞらえ、グローバリゼーションとマルチチュード(多様性・民衆性)を対立させた、ネグリとハートの「帝国」が面白そうだなと思ったので読んでみたい。
説明だけを見ると、リベラル対ポピュリズムのようなものを想像するのだが、どうなのだろう?