アニメ「平家物語」全11話を観終わった。
六話辺りから苦行に思えるくらい、見ているのがキツかった。
重盛も維盛も資盛も清経も敦盛も知盛も宗盛も重衡も、徳子も安徳天皇も時子も、みんな色々あれど置かれた場所で懸命に生きていた人たちで、個人的に知っているような気持ちに既になっている。
それなのに、これから平家がどうなっていくか、誰がどういう運命を辿るのかを知っているのだ。
作中で「びわは見ることしか出来ぬ」とびわが繰り返す嘆きを、視聴者も体感する。
そうか、これがびわの視点か。
「見ることしか出来ぬ」のはキツかった。
特に、どう考えてもその立場に向いていないのに、重盛の長男に生まれ「平家の大将」として生きなければならなかった維盛は、見ていて情緒がおかしくなりそうだっだ。
向いていないことを強いられているのに、「自分が変わらなくてはいけない」と自分を責め奮い立たせて、最後は脱け殻のようになってしまった。
「人が耐えられることに自分が耐えられるとは限らない」
と維盛を出家させた僧が言っていたが、本当にその通りだと思う。
人が耐えられることはそれぞれ違う。
耐えられないことも含めて、その人はその人なのだ。
維盛にとっては、あれが最善の結末だったのだろう。苦しみを全て捨て去った、最期の穏やな顔が印象的だった。
清経もせめて、ああいう表情で死なせてあげたかった。
残された資盛が、維盛を一切責めなかったのも良かった。清経とは死の直前に口論になったので、その反省かもしれないが。
資盛が生き残ったのは、この三人の兄弟が色々な意味で気性がまったく違っていたことを最後まで表しているように思えた。
資盛は皮肉屋で素直ではないが、内実は強く、維盛と同じくらい優しい。
びわにわざと辛く当たって屋敷から去らせた時に、びわが言った「資盛のことはよくわかっておる」という言葉にはグッときた。
冷たく自分を追い出した裏で、資盛が本当は何を考えているのか、どういう人だからあんな言い方をするのか、びわはわかっている。「平家物語」を見ている自分たちもわかっている。わかってしまっている。
だから平氏が追い詰められ、滅んでいく様を見るのが辛いのだ。
最初は戦などの歴史的な部分は、琵琶法師になったびわの語りだけで済ませてしまうのが不思議だったし、多少不満も感じていた。
でもラスト近くで、「ただそなたらのことを語るだけ。そうすることでその存在を後世に伝える」と言うのを聞いて、そうだったのかと目が開かれる心地がした。
前から不思議だったのだ。
なぜいわゆる歴史上の「悪役」がメインの話が語られ、後世に残ったのだろうと。
「奢れる者も久しからず」という皮肉、教訓にしては言い回しが儚く美しく、哀惜の念を感じる。
アニメ「平家物語」を見て、「そうか。この話は、平家一門の中で育ったびわ(が象徴するもの)が語り継いだのか」と納得出来た。
「実際に彼らが一人の人として生きる姿を見た、その一人一人の生きざまを最後まで見つめ続けたびわが、祈りを込めて語り継いだ。だから、『奢った悪役の物語』が現代まで生きた」
女性も子供も含めて一門すべてが海にのまれた、悲惨な運命の話なのに、最終回を見たときはこれまで見てきた辛さが嘘のような清々しさがあった。
自分たちを追い詰めた後白河法皇を責めず、かと言って悲嘆にもくれず、穏やかな表情で対峙する徳子、辻に出て琵琶を弾くびわ、生き残った資盛の祈りが、今に届いているのだろう、そういう祈りは千年後にも届くのだろうと思えた。
「なぜ、この話が残り続けたのか」
自分の中にずっとあった疑問に、アニメ「平家物語」は答えてくれた。その答えに十分納得出来るだけの美しい世界を見せてくれた。
主題歌のシンクロぶりも素晴らしかった。
色々好きなシーンや好きなセリフはあるのだが、徳子の「自分の望まない場所で生きなければならないとしても、不幸になるとは限らない」というセリフが好きだ。
「そう生きざるえなかったからこそ、『そう生きざるえなかった』とは思わせない」
そんな強さを感じた。
並行して見ているから「鎌倉どのの13人」との人物像の違いも楽しめた。
あと、やっぱり「平清盛」が観たい。再放送してくれないかなあ。