*ネタバレ注意。
『鎌倉殿の13人』佐藤浩市、最も頼りになる者の切ない最期 「頼朝嫌い」がトレンド入り(リアルサウンド) - Yahoo!ニュース
昨日の第15回「足固めの儀式」は衝撃的な面白さだった。
「神回」という言葉は余り好きではないけれど、そうとしか言いようがない時もある。ただ第12回「亀の前事件」も凄くよかったので、この後「ずっと神回」状態になってしまい、「神回=いつも通り面白い」になりそうな予感がする。
第15回もその1回の中だけで話が二転三転する、展開の読めなさからが良かった。「状況の変化からくる面白さ」は三谷幸喜の得意分野だけど、「鎌倉殿の13人」はそれが際立っている。
朝起きたら、Twitterのトレンドに「頼朝嫌い」が載っていたが、自分は今回で頼朝を少し好きになった、というか見直した。
今までは、非情というほど非情でもないし、目的のためにプライドも捨てられないし、狡猾と言えるほどは何かするわけでもない。「汚れ仕事は御家人に押しつけて、自分はいいとこ取りをしようとする魂胆」が透けすぎていて「自分じゃ何もしない奴だな」と斜めな視線で見ていた。
「何のために何を捨てられるのか」が(つまり、本当はどういう人間なのか)イマイチ見えてこないキャラだった。
今回、一番印象に残ったのは、上総介を斬ると決めた頼朝を止めようとした義時に頼朝が言った「だから儂なりに(上総介に)別れを惜しんだつもりだ」というセリフだ。
義時のように「時には冷酷にならなければならない」と思っているのであれば、ここは何も言えなかったと思う。
周りの人間に対して愛情もあるし別れがあれば泣くだろうが、本当の意味で他人の動向や生き死にが頼朝の関心事になることはないのではないか、そんな風に思える。
逆説的にだけれど、このセリフで頼朝は「他人と自分では、人としての質が違う」とごく自然に思っていることがはっきりと伝わってきた。
上総介は頼朝がこういう人間だと分かっていて、自分の人生を頼朝に賭けようと思っていた。
だが上総介はそれでも頼朝を「自分と同じ人間」だと思い、こういう人間が存在する、とは夢にも思わなかったのではないか。
上総介が頼朝を「わがまま」と評したことに凄く違和感があったのだが、その違和感が頼朝と上総介(≒御家人たち)のどうあっても分かり合えない断絶を表している。
最初この展開を見たとき、自分のために内通していた上総介を斬ったら、義時など事情を知っている者たちはその後、本当の意味では忠誠を誓わないのではないか、そういう筋は倫理的にどうこうよりも、便宜や功利の面で見ても守らないと危ういのでは、と思っていた。
だが、同じように内通者である景時に上総介を斬らせる、しかも「自分は信じているが、他の者が納得しない」という理由で説得したのを見たとき、徹底しているなと思った。
前回の景時と重忠の牢内での会話も、今回の展開を予見していた。
極めつけが上総介が斬られた場に出てきた頼朝の様子だ。
「御家人の中で有力な上総介を斬った」あと、御家人たちを従わせるためには自分の力を誇示するしかない。
自分は御家人など駒としか見ていない冷酷非情な人間で、お前らなど逆らうなり、不要になればこういう風に切り捨てる、だがそれでも、自分に付き従い、自分のためになるうちは十分な見返りは約束する。
そういうことをあからさまに示して、相手を力でねじ伏せる勝負に出た。
自分の存在ひとつで御家人たちを圧倒しなければならない、ここは頼朝にとって一世一代の勝負の場面だ。
愛情も信頼も好意もいらない。ただ自分という存在を畏怖し、己の利害のために付き従えばいい。
鎌倉時代、室町時代の「御恩と奉公」の関係はこういうものだったのではないか。
そういうリアリティをあの時の頼朝は、一身で体現していた。
頼朝がこういう冷酷なほど情に流されないリアリストであるのは、やはり流人として生きてきたこれまでの境遇が反映されていると思う。
上総介も御家人として騙し合いや権力闘争の世界で生きてきたのだろうけれど、それでも頼朝の内部にある複雑な陰性の非情さは理解しきれなかった。
個人的には上総介の最期の様子から、そんな頼朝の「わがままさ」を最期に理解して受け入れたと思いたい。
今回で頼朝を「なるほど、こういう人だったか」と思い、好感を持った。
この先はずっと身内同士の過酷な争いになるのでまた「いけ好かない奴だな」と思うようになるかもしれないが、そこも含めて善悪や是非では割りきれない面白いキャラだなと思った。
「鎌倉殿の13人」は義仲が善玉だし、義高と大姫の下りもあるので、来週からも辛い展開が待っていそうだ。
「真田丸」の秀次もそうだったが、三谷幸喜は歴史上「悪人説」が定番な人物を善玉の解釈で描くのが好きだな。