完結したら単行本を買って読もうと思っていた「ゴールデンカムイ」だが、バズっていた金カム増田を読んだことをきっかけに、いっき読みした。
いやあ面白かった。
単行本で大幅に加筆するらしいのでそれを読んだらまた何か書くかもしれないが、とりあえず本誌掲載された分を読んだ感想を書きたい。
*ネタバレ注意。
「ゴールデンカムイ」は愛を求めて狂う男たちの物語。
「ゴールデンカムイ」は色々な要素が詰まった物語だが、自分が一番面白いと感じたのは、「愛情脳」なキャラが多いところだ。
「どれだけ愛に飢えているんだ」と思うくらい愛に飢え、ずっと愛の話をしている。
彼らが奪い合いをするゴールデンカムイとは「愛情」だ。
「人が人を殺す」(争う)のは、恐怖や憎悪ではない。政治思想でもない。
「殺人」というハードルを飛び越えうる唯一の動機は「愛」なのだ。
ではどうすれば兵士たちは「発砲すんふり」ではのうて、敵兵を殺してくれんだろっか……。
以前、殺人への抵抗を飛び越えられる人間について考えさせられた出来事があったんですて、それがずっと引っかかっていたんですろも……。(略)
兵士の攻撃性を引き出す原動力なんもんは敵兵への憎しみでもなく恐怖でもなく、政治思想への違いでもねえ。
(引用元:「ゴールデンカムイ」第227話 野田サトル 集英社)
「ゴールデンカムイ」の面白いところは、「愛する人がいてその人を守りたいがために、人は戦う」などという綺麗な言い方はせず、「人は愛情というものに駆動されて、能動的に殺人への抵抗をなくす」という考えを語り、しかもそれを証明するような物語を展開しているところだ。
人が人を殺すのは「愛」という動機のみである。
「愛するものはゴールデンカムイに皆殺される」(第313話)は、「愛するものは愛によって皆殺される」だ。
物語の一方を背負う鶴見が考える世界の法則はこれである。
愛を求める「犬」たち
鶴見は、さらに「殺人への抵抗を飛び越えられる人間」の条件について語る。
「『攻撃性が強く忠実で後悔や自責を感じねで人が殺せる』生まれながらにして兵士の者」=「犬」*1である。
鶴見が「犬」の条件を語る回からシマエナガ回につながっていることからわかるように、杉元も宇佐美(尾形、月島、鯉登も)と同じ「犬」である。
杉元はこの回でアシㇼパの名前を十四回呼んでいる。(余りに連呼するので気になって数えた。)
「アシㇼパさんに何々を教わった」という話ならばまだしも、呼びかけや動向についても「アシㇼパさん」「アシㇼパさんが迎えに来る」「アシㇼパさんも来ない」とアシㇼパの名前だけをひたすら呼ぶ。
白石やヴァシリは「アシㇼパさんたち」という形ですら存在しない。
これが「犬」の特性を示す「忠実さ」だ。
普段の杉元はアシㇼパに危機が迫ったとき以外は、ここまでバランス感覚を欠いていない。シマエナガ回は「『犬』とは何なのか」「杉元も宇佐美たちと同じ『犬』である」ということを強調するために、こういう言動になっているのだと思う。
そして「主人」であるアシㇼパの下へ戻るためならば、「殺人への抵抗を無くし、後悔も感じない」。
コメディタッチになっているが、杉元がシマエナガにしたことは、宇佐美が智春にしたことと同じだ。
月島にいたっては、家永が止めなければ妊婦であるインカラマッを殺していただろう。
(引用元:「ゴールデンカムイ」第229話 野田サトル 集英社)
犬は愛ゆえに主人が飼っていた鶏を全て殺す。
主人の愛情を独占したい、自分が主人だけを見ているように自分だけを見て欲しい、主人の下へ帰り忠義を尽くすためならば、仲良くなった鳥を食うことも厭わない。
そういう特性を持つ。
彼らは「主人」への愛のためならば、「殺人への抵抗」を平気で飛び越えることが出来る。仲良くなった鳥だろうと妊婦だろうと殺す。
彼らが「おかしく見えるか、見えないか」は、ただ彼らが仕える「主人」の違いと状況の差に過ぎない。
父からの愛の欠落が息子を狂わせる。
このあと鯉登が出てくるが、鯉登は谷垣とインカラマッを見逃す。
月島と鯉登の違いは「捨てたものの大きさ」(第231話)だ。
「ゴールデンカムイ」で機能している「愛情」は、根本的には「父親からの愛情」だ。この愛情の欠落、もしくは喪失が息子を狂わせる。
(引用元:「ゴールデンカムイ」第291話 野田サトル 集英社)
291話で鶴見が鯉登と鯉登父について言及したこのセリフは重要だ。
「父の愛があれば、息子に砲弾は落ちない」
鯉登父が回天の主砲からの砲撃を迎撃しているので、事実だけを説明しているように見えるが、「父親の愛があれば息子に砲弾は落ちない」はストーリーに通底する原理だ。
自分を全ての脅威から守り、戦いを見守ってくれる父親からの愛情を、特に鶴見の配下たちは狂うほど求めている。
①人は愛情というものに駆動されて、能動的に殺人への抵抗をなくす
②①の条件に最も適うのが「『攻撃性が強く忠実で後悔や自責を感じねで人が殺せる』生まれながらにして兵士の者」=「犬」
③では「犬」になりうる条件は何か。→これが父親の愛情の欠落、もしくは喪失ではないか。
鶴見は犬たちに、愛情を与える「狂った父性」だ。
一般的には子供への愛によって狂うのは母性が多く、父性は厳格で巌のように動かしがたいもの、として描写されることが多い。
しかし「ゴールデンカムイ」では、父性が愛によって狂っている。
鯉登には自分を愛してくれる父がいるために、鶴見の「狂った父性」を必要としていない。だから鶴見を敬愛していても、支配下には入らない。
月島の「捨てたもの」はいご草ちゃんに集約されているが、その根本には「父性として機能しない父親を殺した」という問題がある。
尾形は月島と同じように「父性として機能しない父親」を殺したが、月島と違うところはいご草ちゃんに当たる勇作を「捨てた」のではなく「殺した」ところだ。
日本まで追いかけて来たヴァシリは、物語の深層上はもう一人の尾形である。(「俺だったら」ということを繰り返している。)自責の念に苦しめられている尾形は常に自分で自分を殺そうとしている。
最終的に自己対話から自殺に行き着いたのは、この流れに沿っている。
宇佐美の父親は穏やかで優しいが、宇佐美に「野良仕事を手伝ってもらわなければならない」、そして智春の父親とは違い「鶴見が目をかけるほど偉い人ではない」。宇佐美の中では父性として機能していない父親だ。
杉元の場合は「欠落」ではなく「喪失」だ。彼は病床の父親のために何の役にも立つことができなかった、という罪悪感を抱えている。
(引用元:「ゴールデンカムイ」第236話 野田サトル 集英社)
役に立たなくとも病床の父親の側にいるべきか、父親の言う通り自分のために生きるべきか、という葛藤の反映で、父親の意思を継ごうとするアシㇼパに事あるごとに「自分のために生きて欲しい」と言う。
「父性愛が欠落している」
「罪悪感ゆえに『自分のために生きろ』という父性愛を受け取れない」
形は違えど、父性愛を受け取ることが出来ないという意味では、杉元もまた「犬」になる素質があるのだ。
なぜ、「父という神」が狂っているのか。
鶴見(父)が狂っているのは、妻子を殺されたためだ。
狂った父である鶴見は、自らの「犬」となる息子たちを集めている。
国防のために極東ロシアを緩衝地帯として手に入れる。
満州に眠る戦友たちの弔いをしたい。
妻子の眠るウラジオストクを日本の領土にしたい。
それらは鶴見の中で不可分である。
(引用元:「ゴールデンカムイ」第270話 野田サトル 集英社)
同じように部下たちを利用している、愛している、この二つの要素も鶴見の中で不可分に見える。
「ゴールデンカムイ」の父親は「息子を愛しているからこそ、死地に向かわせる」。
子供には率先して死んでもらわなければ、他人の子供に「死ね」と命ずる罪悪感に耐えられない。
「死ね」と命ずることは、子供に愛情がある証なのだ。
鶴見も(部下たちに対して)花沢も鯉登父もウィルクもそうだった。
息子を愛する父親が愛情ゆえに息子に死ねと命じ、息子はその愛情を受け取って「犬」となり、死地へ赴く。
「ゴールデンカムイ」はこういう狂った父性愛の原理に支配された世界だ。
「正常な愛情」=自分の家族を得たときのみ、狂った父性から逃れこの世界から離脱することが出来る。
「建前と本音」に明確に線を引く女性たち
「ゴールデンカムイ」の面白いところは、「個人的な愛情よりも大義を優先する」という従来の男性像を女性キャラが背負っているところだ。
(引用元:「ゴールデンカムイ」第238話 野田サトル 集英社)
「個人的なこと(本音)と政治的なこと(建前)」が不可分である男キャラが多いなか、アシㇼパやソフィアは「個人的なことと政治的なこと」を明確に区分けしている。
インカラマッのように「母」になれば、物語(戦場)から離脱する。
戦場に残り続けるアシㇼパやソフィアは、母親でも娘でもなく愛する人を持ちながら自分の中の信念を優先する一人の女性である。
男は「父は父であるからこそ息子に死ねと命じ、息子は息子であるからこそ父の死ねという愛情を受け取りながら戦う」
女は「愛する男はそれはそれとして、自分の中の信念や大義のために戦う」
こういう対比が面白い。
まとめ
「人は唯一、愛情によってのみ殺人への抵抗を乗り越える」
裏を返せば、それほど人は人の愛情を求めている、それがどんなに歪み歪ませ、狂い狂わされるものであっても、愛情なしでは生きて行くことは出来ない。
だからあれほど過酷な殺し合いをしてでも、それを求めるのだ。
そういう「愛情の恐ろしい面」が説得力を持って伝わってくるため、ついうなずいてしまう。
だがそれでも
黄金のカムイってのは、そんな悪いものじゃなくて、使う奴によって役目が変わると思うんだよな。
(引用元:「ゴールデンカムイ」第314話 野田サトル 集英社)
杉元が言うとおり愛情は「使う奴によって役目が変わる」ものだ。
決して鶴見が言うような「愛する人を殺してしまうもの」なだけではない。
谷垣やインカラマッは結ばれることで狂った父性が支配する世界から抜けることが出来たし、鶴見が死んだあと、鯉登の愛情によって月島は生きることが出来た。
そして杉元とアシㇼパが一緒になることで、めでたしめでたしとなった。
一番面白かったのは、この「狂った父性愛に支配され狂わされている世界観」だが、他にも面白い部分はたくさんあった。
樺太編が好きだ。サウナや山田曲芸団、スチェンカなど腹を抱えて笑った
ほとんどのキャラが好きだが、特にソフィアと門倉と都丹庵士が好きだった。
ソフィアは胸丸出しで岩息と殴り合い、岩息に「手加減できませんっ」と言わせたシーンに無茶苦茶痺れた。
「女だから」と言う男に「そう思っている余裕があるかどうかすぐにわかる」と思わせる女性キャラが大好きだ。
一番好きなのは鯉登。
真っすぐで、自分が背負った責任から逃げない、鶴見を敬愛しながらも部下である月島のことは自分のことよりも心配する。
鶴見か月島に殺されるんだろうな、と思いながら読んでいたいので、生き残ってホッとした。
最後はちょっと駆け足に感じたので、単行本の加筆を楽しみにしている。
続き。鶴見について。
他のキャラについての雑談。
*1:「ゴールデンカムイ」で「犬」という語が出てきたら、鶴見の配下の大半と杉元に共通する「殺人への抵抗を飛び越えられる条件である愛情が余りに深く狂う者」という文脈で見るのがいいように思う。センシティブな問題なので難しいところだけど。