うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【漫画感想】「これは恋のはなし」。恋愛モノの出来レースとユートピア構造は、相性が悪い。

【スポンサーリンク】

 

*タイトル通り、否定的な感想です。

*ネタバレ注意。

 

「これは恋のはなし」全11巻を読み終わった。

この話は、同じ孤独を抱える31歳の作家と10歳の少女の十年にわたる交流の話だ。少女は出会った瞬間から作家のことが好きである。(※という筋で駄目だと思った人は読まないほうが無難)

 

年の差恋愛には興味がないが、この設定は良かった。

31歳の作家と10歳の少女。ありえない、気持ち悪い、ということは(真一本人も含め)作内でさんざん指摘される。

社会的に見ればありえない、あってはならないことにも関わらず、この二人の一対一の関係では(重めに言うと実存的には)お互いがお互いのために作られた、運命の相手なのだ。

(引用元:「これは恋のはなし」11巻 チカ 講談社)

 

(引用元:「これは恋のはなし」11巻 チカ 講談社)

 

自分がこの話の最も(そして唯一)良かったと思う点は、どれほど社会(外形)的にはありえないように見え、本人(真一)が戸惑いを覚えても、「真一と遥にはお互いしかありえないのだ」と読者にはっきりと伝わってくるところだ。

設定はそうなっていても、読み手にはピンとこず、最後に二人が結ばれたときに「最初から好きだったのか」と驚く場合もあるが、この話は「最初から好きだったことに、今ごろ気付いたかのか」と突っ込みたくなる。

 

二人の関係は、家族愛、恋愛、そういう全てを超越した「お互いが喪われた自己の一部と言っていいくらいの存在」だ。

お互い以外の相手を選ぶなどあり得ない。よそ見すらしない。(出来ない。)最初からそうはっきりとわかる。

 

ジャンル「出来レース」では、二人の結びつきの中では、他の人間はモブのようなもので、何の影響力も干渉力も発揮できない。

通常の恋愛モノの小道具(ひどい)「当て馬」などでは二人の関係を揺さぶれないので、他の方法を使うしかない。

 

①外界から強固な圧力を加える。

②内面の力を使う。

パッと思いつく方法は、この二つだ。

 

「これは恋のはなし」の場合、①が年齢差しかない上に、年齢差(から生じる社会的な圧力)もうまく使えていない。

大垣、里見、遥の父親、詩子の母親など本来であれば、二人の関係性にとって障害になりそうな周りの大人たち(社会)は、何だかんだ言いつつも二人を応援する、もしくは大した障害とならずに去っていく。

特に遥の父親が遥の保護者の役割を真一に頼むのは、現実的に考えても話の流れからしても不自然だ。

 

二人の関係が出来レースなうえに、その周りを少女漫画でよく見られる「ユートピア構造」(造語)で囲ってしまっている。

「ユートピア構造」とは恋愛がメインの少女漫画でよく見られる、主人公の友人、主人公の相手役の友人の男女五、六人程度で構成される小世界である。

 

「これは恋のはなし」では、真一、遥、大垣、里見、杉田、詩子で形成されていて、例えば大垣の妻・舞穂はこの中に入っていないため、このメンバーで集まるときは不在になる。

この小世界の住人は強固な絆で結ばれており、外界から主人公を守る保護膜の役割を果たしている。

多くの場合、この内部で(関係性が先々においてまで激変する決定的な)対立が生じることはない。

 

「これは恋のはなし」を読んで、「ユートピア構造」と「出来レース」は恐ろしく相性が悪いと気付いた。

 

考えてみれば当たり前で、「出来レース」と思えるくらい強固な絆を揺さぶるためには、その絆以外の全てが敵に回るくらいの強力な力をぶつけるしかない。

「これは恋のはなし」では、二人の関係性(絆)が外界から守られている。

 

①外界からの圧力がまったく機能していないので、二人の関係を揺さぶるものは②内面の力しかない。

内面の力も色々種類があるが、恋愛で最も障害になるからこそ恋愛モノと相性がいいのは、罪悪感である。

「相手が好きであればあるほど逃げ出したくなる」罪悪感は、恋愛モノにおいて強力な障害となる。

 

「罪悪感キャラについて」続き。イーゴンはなぜイリーナを悪く言うのか?

*罪悪感が極まると、「相手のことが好きだからこそ、相手の前に姿を現すことすら出来なくなる」という訳のわからないことになる。(萌え)

 

「これは恋のはなし」は、罪悪感の使い方も余り上手くない。

年齢差による罪悪感も周りからの後押しにより、あまり強く働かなくなってしまっている。真一の境遇から生じる罪悪感も、遥の罪悪感と重なっているために(だから惹かれ合うのだが)二人の関係性の中では機能しない。

 

「運命の出会いをした二人」が障害をいかに乗り越えるか、という話なのに、社会(客観的世界)がまったく機能していないために障害が障害ではなくなってしまっている。

「客観的には31歳の作家と10歳の少女だが、離れがたいほど惹かれ合う主観的な感覚のほうが真実」という「客観を凌駕する主観的世界観」に対抗出来る価値観が存在しない。

 

客観を主観の強固さで乗り越えるのではなく、そもそも乗り越えるべき「客観的世界」が存在しないのだ。

だから「社会的にありえない年齢」という設定が障害として機能せず、普通の恋愛モノになってしまっている。

 

主人公の真一は内面はほぼ十代半ばの少年であり、遥はそれより少し精神年齢が上だ。

だから二十一歳という歳の差に関わらず、読み手としてはそれほどの不自然さ(はっきり言えば気持ち悪さ)を感じずに、読むことが出来る。

「客観(社会)」が障害として働いていれば、これは読み手が感情移入しやすいプラスの要素だ。(外見的には二十一歳も歳の差があるにも関わらず、内面的には遥が傷ついた少年である真一を守っているという構図でストーリーを見ることが出来る。こういうところはいいのだが)

だが対立する価値観として社会が機能せず、この構図が二人以外の人間にも認められてしまっているために、読み手としても「良かったね」以上の感想が抱きづらい。

 

この話はコアとなる「真一と遥の関係」はしっかり描かれているのに、それを生かせていない、どころか他の要素でその良さをかき消してしまっている感がある。

せっかくの二十一歳差という設定が意味があるものになっておらず、その点が残念だった。

「心に傷を負う孤独な男に、大人びた少女が寄り添う話」が好きなら、普通に楽しめるとは思う。

 

 

※余談

主観的世界は、客観的認識と対立することによってより強固になる(恋愛では困難が多ければ多いほど燃え上がる)ので、客観的認識が存在しなければ主観も弱くなってしまう。

恋愛は特に主観のみで構成される世界なので、主観と客観の対立が顕著で面白さも増すジャンルだ。

 

「ワンダと巨像」は、相手(モノ)は寝ていて反応がない、ドルミンの話が真実である保証はない、自分はどんどん穢れて最終的には死ぬことを示唆されている。

客観的に考えれば、どう考えても報われない、やることが自分にとっても他人にとっても害にしかならないのではないか。

そういう客観的認識における「意味のないこと」を、自分の意思だけを支えに行っている。

「主観の強度のみで世界の意味を支える

そういう話が好きだ。*1

【PS4】ワンダと巨像 Value Selection

【PS4】ワンダと巨像 Value Selection

  • ソニー・インタラクティブエンタテインメント
Amazon

 

*1:「主観の強度のみで世界(客観)を解釈する」(いわゆる世界系)は好きではない。主観の意味を消そうとする客観的世界が存在するからこそ主観の強度は上がる、という構図が好き。……うるさくてごめん。