ドストエフスキーの「悪霊」の中で、自分が自由であることを証明するために拳銃自殺をする男がいたと記憶しているんだけど
(引用元:「騎士団長殺し」村上春樹 新潮社 P249)
したな、自分の前でキリーロフの話を!
と鼻息荒くキリーロフのことを思い出した。
昔からキリーロフが好きだった。
死ぬ寸前にペトルーシャ相手にまくしたてる超理論も大好きだし、それをさっぱり理解せず(理解する気もなく)内心で突っ込みをいれまくるペトルーシャとのズレた会話も好きだった。
自分から見るとドストエフスキーの長編のほとんどは、キリーロフが話したことについて延々と書かれている。
「神は必要だから、存在するはずだ。(略)ところがぼくは、神は存在しないし、存在しえないことを知っている。(略)きみにはわからないのかな。人間はそんな二種の思考を持ちながら生きていけないことが?」
「スタヴローギンは、たとえ信仰をもっていても、自分が信仰を持っていることを信じようとしない。信仰をもっていないとしたら、信仰をもっていないことを信じようとしない」
「もし神があるとすれば、すべての意志は神のもので、ぼくはその意志から脱け出せない。もしないとすれば、すべての意志はぼくのもので、ぼくは我意を主張する義務がある」
「人間がしてきたことといえば、自分を殺さずに生きていけるように、神を考え出すことにつきた。これまでの世界史はそれだけのことだった。ぼくひとりが、世界史上はじめて神を考え出そうとしない。永遠に記憶にとどめるがいい」
(引用元:「悪霊」ドストエフスキー/江川卓訳 新潮社 P434-P435)
「神」と言うと現代の日本の社会に生きる自分たちにはかなり縁遠い話のように聞こえるが、
環境や状況に自我を回収させてその場を逃れる人がほとんどの中で、状況に適合できない自我や人間性があるから、事象が内部まで浸食してきたときに破壊されてしまう。
(村上春樹「騎士団長殺し」の雨宮継彦のエピソードを読んで、アニメ「平家物語」の平維盛がなぜ死を選んだかがようやくわかった。 - うさるの厨二病な読書日記
前回の記事で書いた「自分をとりまく環境と自我との関係の話」が近いと思う。
「自分たちをとりまく環境≒神」に対しての信仰が強烈なゆえに、その環境が生み出す矛盾(バグ)に耐えきれない、こんな矛盾があるということはやはり自分を取り巻く環境はおかしいのではないか。
自分から見るとドストエフスキーの小説は、ずっとそういう話をしている。
「悪霊」は宗教と歴史に縛られたロシアを打ち壊し、新しい思想によって生まれ変わらせようとする若者たちの話だ。
その象徴としての神性を彼らのカリスマだったスタヴローギンに見出そうとしたが、スタヴローギンはただの人であり、「神がいないこと」に絶望して死んでしまう。
「悪霊」で出てくる「神」*1は、「国や民族としてのアイデンティティ」が近い。
アルバニアの小説「誰がドルンチナを連れ戻したか」では、「親族を殺されたら、必ずその復讐をしなくてはならない」という掟が描かれている。その掟のみがアルバニアという国家を支えるアイデンティティであり、だからその連環に抑圧され苦しんでいても人々は手放せない。
苦しみしかない掟の代わりの伝承(神話)を作り、それを民族や国家の基盤・枠組みにしようという話だ。
理屈としては分かるが、イマイチ実感がわきづらい。
「悪霊」でペトルーシャたちが行おうとしたこともこれに近い。
旧来の神を壊し「人という新しい神」を生み出すことで、新しい世界(社会)を作ろうとした。「神」を思想や価値観に置き換えれば、現代にも通ずる話だ。
「もし神があるとすれば、すべての意志は神のもので、ぼくはその意志から脱け出せない。もしないとすれば、すべての意志はぼくのもので、ぼくは我意を主張する義務がある」
「人間こそが神である」
キリーロフは「自分の意志は自分で全てコントロールできる。死ぬ最後の一瞬まで」という方法で、それを証明しようとする。
言っていることの是非はともかく、とにかく徹底しており、本人が言う通り口だけにとどまらず実行しようとするところは「卑劣漢」ではない。
その後、「君は『自分が卑劣じゃない』ことを僕に自慢したい、ただそのためだけに死ぬんですね」と突っ込まれるところまでが、ドストエフスキーの小説のお約束だが。
「新しいロシアは人こそが神である、という思想を精神的主柱にする」と唱えたからには、それを証明することが後世に対する義務だとキリーロフは考えた。(たぶん)
ペトルーシャは自分にとっての神=スタヴローギンが既にいるので、キリーロフは自分たちが新しい神を生み出すために犯した罪を背負って死んでくれれば好都合、くらいにしか思っていない。
だから二人の会話は、場面のシリアスさにも関わらず笑ってしまうくらいズレている。
というより、これほどズレた滑稽な状況に、読んでいるほうが息苦しくなるようなすさまじい緊張感を持たせられるところに、ドストエフスキーの真骨頂がある。
キリーロフの死への内心の強烈な葛藤も伝わって来ることも加わり、二人のズレたやり取りにも関わらず、このワンシーンだけで、人の内部のドス黒い心性を除くような陰鬱なド迫力ホラーになっている。
「悪霊」は全編にわたって、陰惨な雰囲気が黒々とした呪いのようにまとわりついているが(そこが好きなんだけど)、キリーロフの死の直前のシーンはその暗い緊張感が息苦しくなるほど高まっている。
暗い部屋の中で、戸棚と扉の隙間に直立して硬直してペトルーシャが入って来るのをジッと待つシーンは、場面がありありと浮かんで夢にまで出てきそうだ。
暗くて恐ろしい部屋だ。……あいつは吼えるような声を立ててとびかかってきたが、これには二つの可能性がある。(略)
あいつは突っ立たまま、どうやっておれを殺そうか思案していたわけだ。(略)
あいつは、もし自分が弱気を起こしたら、おれがあいつを殺さずに帰らないことを知っている。してみれば、あいつは、おれが奴を殺す前に、おれを殺さなくちゃならない。
……それにしても、またぞろ、またぞろ静まり返ったな! 恐ろしいくらいだ。
(引用元:「悪霊」ドストエフスキー/江川卓訳 新潮社 P445/太字は引用者)
この時、キリーロフは何を考えていたのだろう、と想像すると無茶苦茶怖い。
ドストエフスキーの小説の中で「悪霊」が好きな理由のひとつに、キリーロフの死ぬ間際のこのシーンに強力に惹きつけられる、ということがあげられる。
何度読み返しても人の心の一番暗い部分を覗いているような、恐ろしい緊張感に襲われる。
キリーロフがなしえなかった「意識が明晰に保たれた死」(下巻P528)をスタヴローギンが行うことで、「悪霊」は終わりを迎える。
人間が神になり新しい世界(社会)が生まれるのかと思いきや、何も起こらず終わるという救いのなさが救い、というのが自分の今のところの「悪霊」の理解だ。
いいことがひとつも起こらず、終始暗く、何の救いもない負のエネルギーだけに満ちているが、そこが凄い話なのだ。
プロットがガタガタで凄く読みにくいので、読んだことない人には勧めにくい。
でも読めば読むほどハマる人はハマると思う。
↑に書いたようなことが「好きかも」と思った人がいればぜひ。
*1:ドストエフスキーの他の小説ではまた異なるからややこしい。