*ネタバレがあります。未読の人はご注意下さい。
「騎士団長殺し」(上)(下)を読み終わった。
下巻の途中から「えっ?」と声が出っぱなしだった。
元々「騎士団長殺し」は、村上春樹の小説にしては説明的すぎると思い、首を捻るような気持ちで読んでいた。
村上春樹の小説の特徴は、暗喩や比喩を駆使して読み手個人のイメージに接続して物語を立ち上げる。
だからそのイメージに接続する要素が内部にない人(描かれた物事をそのまま受け取る人)には、非現実的で意味がわからないことが多い。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は、自伝的な小説と作者が言っていたらしいが、「計算士がどうの」「壁の中の世界が」「やみくろが」という話が何故、自伝として機能するのか、というと多くの要素がイメージから生まれた暗喩だからだ。
自分は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が凄く好きだ。
「これは自伝的な小説だ」と言われたらそうだろうとすぐに思う。何故なら、自分もああいう経験をしたことがあるからだ。
「客観が主観を凌駕するとは限らない」(P256)創作の世界だから、自分の中の個人的な経験を作内で描かれたイメージに接続することが可能なのだ。
「その人固有の認識というフィルター」を機能させて、自分が描いた物語世界のイメージに接続させる。「固有の認識というフィルター」を機能させることで、読み手にそのフィルターの在り方を強く意識させる。
創作は多かれ少なかれそういうものだが、村上春樹の小説は意識的に創作のこの効力を追求していると感じる。
なので自分にとっては、村上作品は「自分の内部にイメージに接続する要素」があるかどうかで興味を持つ持たないがはっきり分かれる。
また他の人の読み方を見て「そういう認識の仕方があるのか」と思い、最初は訳が分からないと思っていたのに凄く好きになった作品もある。
コミは主人公の中で大切なもの、自分を守ってくれるものの象徴であり、その象徴がまりえやむろと結びついている。まりえにとっては「自分を守ってくれるもの」は母親であり、そのイデアがドンナ・アンナだ。
免色のまりえに対する執着は、主人公のコミに対する思いと重なる。
「自分の子供かもしれない娘を持つ同一性を共有すること」を以て、免色は主人公のもうひとつの可能性になりうる。(最終的にはむろを娘として「在りえたが選ばなかった自己の可能性」と決別することが、『騎士団長殺し』の課題のひとつ)
騎士団長という自分を抑圧する暗い記憶を断ち切ることで、深層下から顔長が出てきて深層意識に至る穴に潜ることが出来る。
自らの深層に潜ることで主人公は「失ってはならないもの」の象徴であるまりえを見つけることができる。
主人公にとっての「失ってはならないもの」であるまりえが、大切がゆえにそれを自己の内部に閉じ込めようとする免色の家から脱出することで、主人公は「白いフォレスターの男であったかもしれない自分」と決別することが出来た。
「フォレスターの男」は主人公の内部の暗い心性(怒りや暴力性)のメタファーであるが、同時に他の人間の暗い面も表している。
深層下を同時に経験したことで、主人公とまりえは「心を通わせている以上に心の一部分がつながる存在」でもある。
だから騎士団長を殺した後に、深層下にもぐることで、二人は同時に「外」に出ることが出来たし、「深層下でつながることで同一性を分け合う」から、二人で「フォレスターの男」の絵を封じることが出来た。「フォレスターの男」という自分の暗い部分を封じることでユズとまた向き合うことが出来る。
これまでの村上作品と比べると筋も凄くわかりやすい。
イメージとイメージの接続において、個人的な領域に対する依拠度がかなり低い。
普遍的な発想で解釈が可能であるために、解釈がばらけずわかりやすくなる。多くの人が「これはこうだろうな」という風に、作内のある事象が特定の物事に接続するような描き方をしている。
これまでの村上作品は、イメージの接続を個人の認識にゆだねることで、解釈の自由度を確保していた。
こういう大勢の共通認識を統合しようということとはまったく真逆のこと、「他者とのコンセンサスが及ばない個人の領域をいかに拡大するか」という「創作の意義」を一貫して追求していた。
それだけでも「どうした? 急に」と思うのに、「その認識したものがどう機能するか」まで話している。
「創作の造りについて」を作内でそのまま話していて驚いてしまった。
自分の感覚からすると、下巻の後半の部分は小説ではない。解説本に近い。
映画を見ていたら突然「〇〇が出来るまでの300日に密着」という制作ドキュメンタリーに切り替わってしまったようなものだ。
なぜなら私には信じる力が具わっているからだ。どのような狭くて暗い場所に入れられても、どのように荒ぶる曠野に身を置かれても、どこかに私に導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができるからだ。
それがあの小田原近邸、山頂の一軒家に住んでいる間に、いくつかの普通ではない体験を通して私が学び取ったものごとだ。
(引用元:「騎士団長殺し 第二部還ろうメタファー編(下)」村上春樹 新潮社 P372)
ラストのこの部分、「プロフェッショナルとは?」という質問に対する答えを聞かされているような気持ちになる。
そのことに対する否定的な気持ちよりも、「どうしたのだろう?」という気持ちが強い。
自分もよくわからない、興味が持てない作品があるので、言えた義理ではないが、こういうことをされると読み手として信頼されていないようでちょっと寂しくなる。
何か試しているのか、と思うくらい、今までの作品から軸を転換させているように見える。
まりえは主人公にとっては失われたコミの代替になる象徴であり、だから成長が重要なキーワードになるということは明示されている。(まりえ、コミ、ユズ、ムロは主人公の中で同一的な機能を持つ)
これも「コミ、ユズとまりえが主人公の中でイメージでつながっていることを以て、『大切なもの』の象徴として機能する」ということを作内で説明しているけれど、以前の作品だったらこういうことは考えられなかった。
まりえが自分の身体性について色々と言いすぎる、と文句が来ると思ったのか、と勘繰ってしまう。
映画版「ドライブ・マイ・カー」に対して、「テキストに自分を差し出す」と言いながら、テキストに書いてあることを拾わないで自分の解釈を説明しているという否定的な感想を持ったが、まさか作者まで自作品の解説をし出すとは思いもしなかった。
これだけ説明されると、感想も「そうですね」以上のものが浮かばない。
ただ下巻の説明に至るまでには印象深い箇所が何か所かあって、そこは面白かったので良かった。
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深層につながる穴と白いフォレスターの男が封印され主人公がモロを娘としたことで、継彦(的な人物たち)も救われた、と思えたところが一番良かった。